ネット牧師Fl0wR00tの勝手に礼拝説教:洗礼者ヨハネの現れ
序
抜き差しならぬご縁のある茨城春日丘教会・大石健一氏に、この一文を寄せます。これは決して彼への批判や当てつけではなく、私自身が聖書の言葉を語るという新たな可能性に思い至ったことの表明です。
数年前に組織教会を離れてからも、個人的な聖書探求は途切れることなく続いてまいりました。その中で、現代日本のキリスト教界に見られるある種の硬直性が、時に伝道の妨げになっているのではないかとの問題意識を持つに至りました。
知識の深さもさることながら、今まさに求められているのは、聴く者の魂を揺り動かし、情熱を呼び覚ますようなメッセージではないでしょうか。また、インターネットを介した福音の分かち合いは、既存の教会からは時に逡巡をもって見られるかもしれません。しかし私は、伝統に固執するばかりではなく、ITという現代のツールを活かした新しいキリスト教のあり方こそが、この時代にふさわしいと確信しています。
礼拝説教
静寂と期待が交差するこの聖なる朝、皆さまと共に礼拝の時を持てますことを、心より感謝申し上げます。本日は、マルコによる福音書1章2節から8節より、「洗礼者ヨハネの現れ」と題し、主の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。
私たちの魂が真の平安を求め、渇ききった大地が慈雨を待ち望むように、古代の民もまた、救い主の到来を待ち焦がれておりました。その期待が最高潮に達しようとしていたまさにその時、歴史の表舞台に、鮮烈な光芒を放つ一人の人物が登場いたします。それが、洗礼者ヨハネであります。
預言の成就と荒れ野の声
福音書記者マルコは、その記述の冒頭、預言者イザヤの言葉を引用し、ヨハネの登場が神の計画の内にあったことを高らかに宣言いたします。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
この「使者」こそ、洗礼者ヨハネその人であります。彼の使命は明確でありました。それは、やがて来られる救い主、主イエス・キリストのための道を整え、人々の心を準備させることでありました。その舞台は、「荒れ野」。そこは、文明の喧騒から隔絶された静寂の地であると同時に、神の声を聴き、自己と向き合う試練の場所でもありました。ヨハネは、華やかな都ではなく、この荒れ野を選び、神の言葉を預かる者としての覚悟をその身にまとったのであります。
想像してみてください。静まり返った荒れ野に、ただ一人、神の言葉を携えて立つヨハネの姿を。彼の内には、どれほどの使命感と、時に孤独感が渦巻いていたことでしょう。しかし、それ以上に、神に選ばれたという確信と、来るべき方への熱い期待が、彼の魂を燃え立たせていたに違いありません。彼の一つ一つの言葉は、荒れ野の砂を震わせ、人々の心の奥深くに眠る渇望を呼び覚ますかのようでありました。
悔い改めの洗礼と民衆の応答
ヨハネが宣べ伝えたのは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」でありました。これは単なる儀式ではありません。それは、自らの生き方を深く省み、神から離れていた心の方向を百八十度転換し、再び神へと立ち返ることを促す、魂の洗濯でありました。
その呼びかけに応じ、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は、ヨハネのもとへと潮のように押し寄せました。彼らは、律法の重荷に喘ぎ、形骸化した信仰に虚しさを感じ、真の慰めと解放を求めていたのでしょう。ヨルダン川の流れの中で、彼らは自らの罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けました。その一人ひとりの告白は、痛みを伴うものであったかもしれません。しかし、それは同時に、新しい人生への希望の表れでもありました。
ヨハネは、人々の罪の告白に静かに耳を傾け、神の代理人としてではなく、来るべき方の先触れとして、彼らに洗礼を授けました。彼の眼差しには、人々の苦悩への深い共感と、それでもなお彼らを待ち受ける神の赦しへの揺るぎない信頼があったことでしょう。ヨルダン川の水は、人々の罪を洗い流す象徴であると同時に、彼らの心の奥底に眠っていた神への渇望を呼び覚ます聖なる水となったのであります。
ヨハネの生き様、その簡素にして力強い証
聖書は、ヨハネの姿をこう記しています。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」この記述は、彼の異質性を示すと同時に、その生き様そのものが力強いメッセージであったことを物語っています。
らくだの毛衣と革の帯は、かつての預言者エリヤを彷彿とさせ、彼が正統な預言者の系譜に連なる者であることを示唆します。そして、いなごと野蜜という食事は、荒れ野での質素な生活、世俗的な富や快楽からの決別を象徴しています。彼は、人々の注目を集めるための奇抜な格好をしていたのではありません。彼の生き様は、彼が語る言葉と完全に一致し、その言葉に揺るぎない権威と真実性を与えていたのです。贅沢や虚飾とは無縁の生活の中から発せられる言葉だからこそ、人々の心に深く突き刺さったのではないでしょうか。
謙遜の極みと、来たるべき方への畏敬
そして、ヨハネの宣教の核心は、彼自身の偉大さを誇示することではなく、彼よりも「優れた方」の到来を指し示すことにありました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」
この言葉に、ヨハネの深い謙遜と、来たるべき救い主イエス・キリストへの限りない畏敬の念が凝縮されています。履物のひもを解くという行為は、当時、奴隷が主人に対して行う最も卑しい仕事の一つでありました。ヨハネは、自らをその奴隷にすら値しない者と語り、イエス・キリストの超越的な権威と聖性を際立たせているのです。
この時、主イエスはまだ公には姿を現しておられません。しかし、ヨハネの言葉を通して、私たちは、その圧倒的な存在感と、これから始まる神の救いの御業の壮大さを予感することができます。ヨハネの心には、自らが歴史的な使命を果たしつつあるという興奮と同時に、その偉大な方の前では自分がいかに小さな存在であるかという、深い畏れがあったことでしょう。そして、その偉大な方が間もなく現れるという喜びが、彼の全身全霊からほとばしっていたに違いありません。
主イエスは、このヨハネの献身的な働きを、天の父なる神と共に、静かに、しかし深い愛をもって見守っておられたことでしょう。自らの道を整えるために、これほどまでに忠実な僕が用いられていることへの感謝と、いよいよ始まる公生涯への静かな決意、そして何よりも、罪の内に呻吟する人類への測り知れない憐憫の情が、その御心を満たしていたのではないでしょうか。
水の洗礼と聖霊の洗礼
ヨハネは続けます。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
水の洗礼は、悔い改めの象徴であり、外面的な清めでありました。しかし、イエス・キリストが授ける聖霊の洗礼は、それとは比較にならないほど深く、内面的な変革をもたらすものです。それは、神の霊そのものが私たちの内に宿り、私たちの魂を根底から新しくし、神の子としての新しい命を生きる力をお与えになることを意味します。
ヨハネは、自らの役割の限界を明確に理解していました。彼は、救い主そのものではなく、あくまでその道を整える者。しかし、その役割を卑下することなく、誠心誠意、全身全霊で果たしました。そして、自らが提供できるものと、来たるべき方が提供されるものとの決定的な違いを、人々に明確に示したのです。彼の言葉は、人々の期待を、彼自身から、真の救い主であるイエス・キリストへと向けさせるものでした。
現代に響くヨハネの声
愛する兄弟姉妹、洗礼者ヨハネの物語は、二千年の時を超えて、今を生きる私たちにも力強く語りかけています。私たちは、日々の生活の中で、何に心を奪われ、何を追い求めているでしょうか。ヨハネのように、世俗的な価値観から距離を置き、神の声に真摯に耳を傾ける時を持っているでしょうか。
ヨハネは、私たち一人ひとりにも、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかけています。それは、私たちの心の中にある、神を拒む頑なさを打ち砕き、偽りの自己満足を捨て、へりくだって神の前に立ち返ることを意味します。私たちの生活の中で、神が第一とされるべき場所を明け渡し、その御心が行われることを祈り求めることです。
そして、ヨハネが指し示した方、イエス・キリストこそ、私たちの真の救い主です。彼こそが、聖霊によって私たちを新しくし、罪の束縛から解放し、永遠の命を与えてくださる方です。
今日の聖書箇所は、主イエスが直接語られる場面ではありません。しかし、ヨハネの力強い証を通して、私たちは、これから始まろうとするイエスの公生涯の壮大さと、その愛の深さに心を打たれます。ヨハネは、自らの存在をかけて、イエス・キリストという光を指し示しました。彼の情熱は、神への愛と、人々への憐憫、そして何よりも、来たるべき救い主への絶対的な信頼から生まれてきたのです。
このヨハネの情熱が、今、私たちの心にも火を灯し、私たち自身が、それぞれの置かれた場所で、主イエス・キリストの道を整え、その愛と真理を証しする者となることができますように。そして、聖霊なる神が、私たちの内に豊かに働き、私たちの人生を、神の栄光を現すものへと変えてくださいますように、心からお祈り申し上げます。