元キリスト教者の仏教再考:現代人を癒やす仏教
序論:多重危機の時代と新たな「癒やし」のパラダイム
21世紀の現代社会は、かつてない規模の地政学的変動、経済的不確実性、そしてデジタルテクノロジーの加速による情報過多という「多重危機(ポリクライシス)」の只中にある。この急激な変化は、個人のアイデンティティや社会の紐帯を根底から揺るがし、現代人の心に慢性的な不安と認知的な疲労をもたらしている。歴史的に西洋社会の精神的基盤を形成してきた一神教的な世界観や、近代啓蒙主義に基づく「進歩」のパラダイムは、この複雑化した現実に対して有効な処方箋を提供することが困難になりつつある。
こうした背景の中、西洋的な「外部からの救済」に代わる新たな精神的足場として、東洋の瞑想的伝統、とりわけ仏教の思想と実践に世界的な注目が集まっている。しかし、仏教が現代において真に有効なレジリエンス(精神的回復力)の基盤として機能するためには、それを単なる自己啓発や消費的なニューエイジ・スピリチュアリズムと明確に区別し、その哲学的、論理的、そして科学的堅牢性を再評価する必要がある。
本報告書は、四つの学際的アプローチを通じて、現代社会における仏教的パラダイムの価値を網羅的かつ構造的に検証する。第一に【比較宗教学的視点】から、元キリスト教徒の視点も交えつつ、一神教の救済構造と仏教の解放の構造を対比し、なぜ現代において「執着を手放す」アプローチが現実的な癒やしとなるのかを考察する。第二に【批判的検証】として、現代のフワッとしたスピリチュアリズムと初期仏教の論理的実践体系との決定的な境界線を明確にする。第三に【社会構造的視点】から、ジャン=フランソワ・リオタールが提唱した「大きな物語の終焉」以降の分断社会において、仏教の「空」や「縁起」の思想がどのようにアイデンティティの揺らぎに対する処方箋となるかを論じる。最後に【認知科学的アプローチ】を用い、キリスト教的な「祈り」と仏教的な「瞑想」が脳のネットワークに及ぼす影響の違いを最新のエビデンスに基づいて解明し、情報過多による脳疲労に対する実践的ツールとしての仏教の優位性を提示する。
1. 【比較宗教学的視点】一神教的パラダイムからの転換と「癒やし」の構造
西洋文明の心理的・文化的基盤を形成してきたキリスト教を中心とする一神教のパラダイムと、仏教のパラダイムは、存在論(オントロジー)および救済論(ソテリオロジー)の根底において決定的に異なる。現代の複雑な社会における「癒やし」の構造を理解するためには、これら二つの世界観を構造的に比較する必要がある。
一神教の枠組み:絶対的な神、直線的な時間観、原罪と外部からの救済
キリスト教的な一神教の世界観は、被造物(人間と世界)と創造主(絶対的な神)という明確な二元論の上に構築されている 。このパラダイムにおいて、時間は「天地創造」から始まり「最後の審判」へと向かって進む、直線的かつ目的論的(テレオロジカル)な性質を持つ 。
人間の心理的構造の根底には「原罪(Original Sin)」という概念が置かれている。人間は神の意志から離反した存在であり、自らの力だけではこの根本的な欠落状態を修復することができないとされる 。したがって、人間の苦境の解決策は必然的に「外部からの救済(External Salvation)」に依存することになる。キリスト教における贖罪(Redemption)は、イエス・キリストの犠牲という外部からの神の恩寵(Grace)と、それに対する個人の信仰(Faith)へのコミットメントを要求する 。
かつてキリスト教的パラダイムの内側にいた者の視点から見れば、この構造は絶対的な安心感を提供する一方で、強烈な実存的重圧をもたらす。自己の魂が永遠の存在として実体化されているため、その救済の行方は「永遠の生命」か「永遠の罰」という究極の二者択一に縛られる 。また、複雑で理不尽な現代社会において「全知全能の神がなぜ苦難を許すのか」という神義論(Theodicy)的な葛藤は、外部の救済者に対する期待と現実との間の認知的協和音を生み出し、心理的な危機を深刻化させる要因となり得る。
仏教の枠組み:非一神教、縁起、諸行無常、空、そして内面からの解放
対照的に、仏教は絶対的な創造主や外部の救済者を想定しない非一神教的な体系である 。仏教の存在論の中心には「縁起(Dependent Origination / Pratītyasamutpāda)」がある。これは、すべての物理的・精神的現象は無数の原因と条件の相互作用によって生起しており、孤立して自存する実体は存在しないという法則である 。
この縁起の法則から、仏教の根本教理である「三法印」が導き出される。
- 諸行無常(Anicca): すべての現象は絶えず変化しており、永遠に留まるものはない 。
- 諸法無我(Anatta): 固定的な本質や永遠の魂(自己)は存在せず、自己とは五蘊(物質的・精神的要素)の動的なプロセスの仮の集合体に過ぎない 。
- 一切皆苦(Dukkha): 無常であり無我である現象に対して、永遠であることを求め、執着する(渇愛:Taṇhā)からこそ、苦しみが生じる 。
仏教における根本的な問題は、神への罪ではなく、この世界の真の姿に対する「無明(Avijjā / 無知)」である 。したがって、苦しみの解決は外部からの救済ではなく、無明と渇愛を滅尽し、現実をあるがままに洞察することによる「内面からの解放(Liberation / Nirvana)」である 。
比較構造と現代社会における心理的「癒やし」の現実性
これら二つのパラダイムの構造的差異は、以下の表のように整理される。
| 比較次元 | キリスト教(一神教的パラダイム) | 仏教(縁起的パラダイム) |
| 絶対的リアリティ | 超越的な創造主としての絶対神 | 無我(Anatta)および空(Sunyata)、縁起 |
| 時間観 | 直線的・目的論的(創造から終末へ) | 円環的・相互依存的、現在の瞬間に焦点 |
| 自己の性質 | 神によって創造された永遠の魂(実体) | 実体のない動的なプロセス(五蘊の集まり) |
| 苦しみの根源 | 原罪、神との分離、不従順 | 無明(無知)とそれに基づく執着・渇愛 |
| 解決のメカニズム | 外部からの救済:神の恩寵と信仰による贖罪 | 内面からの解放:実践による無明の打破と執着の手放し |
現代の複雑で不確実な社会において、西洋的な「外部からの救済」というパラダイムは、心理的な限界を露呈している。予測不可能な経済危機、気候変動、パンデミックなど、個人のコントロールが及ばない事象が頻発する現代において、「世界は最終的に神の計画によって正しい方向へ進歩する」という直線的な期待は、しばしば裏切られ、深い絶望やシニシズムを生み出す。
ここで、仏教の「執着からの解放(Non-attachment)」や「あるがままの受容」が、現代人の心に対する深く現実的な「癒やし」として機能する理由が明確になる。仏教心理学において、執着を手放すことは、虚無主義的な諦めや冷笑的な無関心ではない 。それは、物事や自己が「常に変化するものであり、完全にコントロールできるものではない」という事実を、認知的および感情的に受容する柔軟性の獲得である 。
一神教的フレームワークが「外側の世界(あるいは自己の運命)が神によって救済されること」に心の平安を依存させるのに対し、仏教的フレームワークは「世界がどうであれ、それに対する自らの『執着の構造』を解除すること」に平安を見出す 。自己を固定的な実体(魂)として防衛するのではなく、流動的なプロセスとして解放することで、アイデンティティへの固執から生じる不安が消滅する 。これは、外部環境に依存しない、自己完結的で極めてレジリエンスの高い心理的安定をもたらすのである。
2. 【批判的検証】現代スピリチュアリズムとの境界線と、仏教の哲学的堅牢性
西洋社会や近代化された日本において、仏教の教えはしばしば「ニューエイジ思想」や商業化された「自己啓発(スピリチュアリズム)」と混同されて消費されている。不安を背景にした様々な「癒やし」が氾濫する現代において、現実逃避的なスピリチュアリズムと、論理的で堅牢な哲学としての初期仏教との決定的な境界線を明確にすることは、仏教の真の価値を再定義する上で不可欠である。
ニューエイジ思想の歴史的背景と認識論的ナルシシズム
現代のスピリチュアリズムやニューエイジ運動の起源は、19世紀後半の神智学(Theosophy)やニューソート運動に遡る。1880年、ヘレナ・ブラヴァツキーとヘンリー・オルコットがスリランカで仏教に改宗した出来事は、東洋思想が西洋のオカルティズムと融合する象徴的な出発点となった 。その後、1960年代のカウンターカルチャーを経て、ニューエイジ思想は「宗教のドグマから離れた個人の霊的探求」として現代社会に定着した 。
ニューエイジ思想の認識論的な最大の特徴は、「急進的な個人主義(Radical Individualism)」と「主観主義」である 。このパラダイムでは、究極の権威は個人の「直感」や「感情」に置かれる。「自分にとって真実であるものが真実である」とされ、客観的な論理や批判的検証は退けられる 。さらに、彼らはしばしば「真の自己(Authentic Self)」や「宇宙的意識」の存在を信じ、「自分の思考が現実を創造する(引き寄せの法則など)」という極端な観念論を主張する 。
仏教的な視点から見れば、このようなスピリチュアリズムは、究極的には「永遠主義(Eternalism)」や唯物論的な現世利益の追求に過ぎず、自己(エゴ)を解体するどころか、スピリチュアルな用語を用いてエゴを肥大化・正当化する「認識論的ナルシシズム」に陥っている 。それは、現代の消費資本主義と親和性が高く、不快な現実から目を背けるための鎮痛剤(Palliative)としての「癒やし」を提供するに留まっている 。
初期仏教が持つ論理的で実践的な構造(四諦八正道)
これに対し、初期仏教(Early Buddhism)は、主観的な感情や神秘体験に依拠するのではなく、極めて客観的、経験的、かつ論理的な構造を持っている 。ニューエイジが「自分自身の直感が権威である」とするのに対し、仏教は「未覚醒の人間は根本的に妄想状態(無明)にある」という厳しい前提から出発する 。
初期仏教の論理的堅牢性は、釈迦が提示した「四箇の真理(四苦八苦、四諦)」に最も明確に表れている。これは古代インドの医学的診断モデルを応用した、驚くほど合理的な問題解決のフレームワークである 。
- 苦諦(Diagnosis): 人生は本質的に「苦(Dukkha=思い通りにならないこと)」であるという客観的事実の直視 。これは悲観主義ではなく、冷徹なリアリズムである 。
- 集諦(Etiology): 苦しみの原因は、無常な世界に対して固定的な自己や事物を求める「渇愛(Taṇhā)」と「執着」にあるという病因の特定 。
- 滅諦(Prognosis): 原因である渇愛を完全に滅尽すれば、苦しみも消滅する(涅槃)という論理的な予後の提示 。
- 道諦(Prescription): 苦しみを滅するための具体的な実践体系である「八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)」という処方箋 。
現実を直視する堅牢な哲学としての仏教の再定義
現代スピリチュアリズムと仏教の違いは、以下の点において決定的に峻別される。
| 比較次元 | 現代ニューエイジ・スピリチュアリズム | 初期仏教の論理と哲学 |
| 認識論的権威 | 個人の主観的な感情や直感。「自分が信じるものが真実」 。 | 客観的な因果律(縁起)。未覚醒の主観は無明(妄想)に覆われているとする 。 |
| 自己の捉え方 | 「真の自己(Authentic Self)」「大いなる魂」の存在を肯定し、それを探求する 。 | 無我(Anatta)。固定的な自己の本質を徹底的に否定し、プロセスとして捉える 。 |
| 現実へのアプローチ | 思考で現実を創造する(引き寄せ等)。不快な現実からの逃避や現世利益の追求 。 | 苦(Dukkha)の存在を直視し、原因を分析して実践的に解体する。現実からの逃避を戒める 。 |
| 実践の目的 | 気分の高揚、ポジティブ感情の獲得、自己肯定感の増幅(鎮痛剤的癒やし) 。 | 苦しみの完全な滅尽、執着の構造の解体、究極の智慧の獲得 。 |
仏教が提供する「癒やし」は、ふわふわとした宇宙的エネルギーに包まれることでも、自分に都合の良い現実を夢想することでもない。それは、自己と世界を支配する「縁起」という因果のネットワークを精緻に分析し、執着という認知的なバグを論理的かつ実践的(瞑想・倫理的行動)に修正していくという、極めてシビアで堅牢な自己解体・再構築のプロセスである 。現実の構造から目を背けるのではなく、それを直視し解剖する体系として、仏教は現代哲学や科学の厳しい批判的検証に耐え得る堅牢性を保持しているのである。
3. 【社会構造的視点】「大きな物語」の終焉と、アイデンティティの再構築
仏教の思想が個人の内面をどう再構築するかを理解するためには、現代の社会構造の変容、すなわち「大きな物語(Grand Narratives / Metanarratives)」の喪失というマクロな文脈を考慮に入れる必要がある。
リオタールと「大きな物語」の崩壊
フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、1979年の著書『ポストモダンの条件』において、ポストモダンを「大きな物語に対する不信(incredulity towards metanarratives)」と定義した 。近代(モダニティ)の社会は、普遍的な真理や歴史の進歩を約束する包括的な物語によって支えられてきた。啓蒙主義による理性の勝利、マルクス主義による労働者階級の解放、そしてキリスト教的な救済の歴史観など、これらは社会全体に共通の目的と意味を与え、個人のアイデンティティを位置づける基盤として機能していた 。
しかし、20世紀における二度の大戦やホロコーストの経験、そして科学技術と情報化経済の急速な発展により、これらの普遍的・全体主義的な物語は説得力を失った 。誰もが信じられる単一の「歴史のゴール」や「進歩の保証」が消失したことで、社会は多様で局所的な「言語ゲーム」へと断片化したのである 。
アイデンティティ政治と分断の構造
大きな物語が崩壊した結果、現代社会は深刻な副作用に見舞われている。それが、極端な「アイデンティティ政治(Identity Politics)」とポリティカル・コレクトネスを巡る社会の分断である 。
人間は意味と所属の基盤を失うと、心理的な安全保障を求めて局所的な属性(人種、ジェンダー、政治的イデオロギー、ナショナリズムなど)に強烈にしがみつくようになる 。心理学的に言えば、これは「自己同一化(Ego-Identification)」の病理である。個人が自らの「自己(Self)」と「政治的・社会的ラベル」を完全に一体化させてしまうと、そのイデオロギーに対するいかなる批判も、単なる意見の相違ではなく「自己の存在に対する致命的な脅威」として知覚されるようになる 。その結果、対話は不可能となり、社会は他者を敵視し排除し合うトライブ(部族)の集合体へと退行していく 。
仏教の「空(Sunyata)」と「縁起」によるレジリエンスの処方箋
このようなイデオロギーの対立と分断が激化するポストモダン社会において、仏教の「空(Sunyata)」および「縁起」の思想は、アイデンティティの病理に対する極めて構造的な処方箋を提供する。
「空」は、西洋哲学においてしばしばニヒリズム(虚無主義)と誤解されてきたが、仏教における空とは「無(Nothingness)」ではなく、「自性(Svabhava=固定的・独立的な本質)の欠如」を意味する 。すべての事象や概念は「縁起(相互依存的な関係性)」の中でのみ立ち現れるため、絶対的で不変の実体を持たない 。
この思想をアイデンティティの文脈に適用すると、個人に以下のような強靭なレジリエンスがもたらされる。
- アイデンティティの脱実体化(De-reification): 自らが属する政治的信条や社会的属性が、絶対不変の「真理」や「私の本質」ではなく、特定の歴史的・社会的条件(縁)によって一時的に形成された「空なる構成物」に過ぎないことを洞察する 。これにより、イデオロギーに対する狂信的な「執着(Ego-Identification)」が解除される。個人は社会活動に参加しつつも、それに自己の全存在を懸けて防衛するような硬直性から解放される 。
- 「静かなるエゴ(Quiet Ego)」と他者への受容: 仏教の「無我(Anatta)」に基づく非執着の心理学に関する研究は、自己に対する執着を手放すことが「静かなるエゴ」を育成することを示している 。アイデンティティが脅かされるという恐怖が減少すると、人間は防御的な反応を止め、対立する他者の視点に立つ余裕(パースペクティブ・テイキング)を獲得する 。
- 相互依存性による新たな紐帯: 大きな物語が失われた後、西洋的な個人主義は人間を孤立化させた。しかし、「縁起」の思想は、自己が独立して存在しているという幻想(無明)を打ち破り、すべての生命や環境が構造的に繋がっているという事実を明らかにする 。この絶対的な相互依存性の認識は、部族主義(Tribalism)の前提である「自己と他者の明確な分断」を無効化し、分断された社会において本質的なコンパッション(慈悲)を再構築するための基盤となる 。
このように、仏教の「空」の思想は、ポストモダンにおける相対主義や虚無主義に陥ることなく、硬直化したアイデンティティを解毒し、他者との関係性のなかに流動的で強靭な自己を再構築するための高度な哲学的ツールとして機能するのである。
4. 【認知科学的アプローチ】「祈り」と「瞑想(脳科学)」のメカニズム比較
仏教の思想や哲学がマクロな視点から現代社会の病理に処方箋を提示する一方で、その実践的なツールである「瞑想」は、ミクロな視点、すなわち脳神経科学のレベルにおいて現代病とも言える脳の疲労を直接的に癒やす機能を持っている。信仰的行為としてのキリスト教的な「祈り」と、仏教的な「瞑想」は、心理的な安らぎをもたらす点では共通しているが、脳科学的なメカニズム(作用する神経ネットワーク)においては明確に異なる働きをしていることが、最新のエビデンスによって明らかになっている。
現代の脳疲労と「情報過多(Information Overload)」
現代社会はデジタルテクノロジーの普及により、絶え間ない通知、マルチタスク、そして膨大な情報の処理を脳に強いている。この状態は、脳の前頭前野(実行機能)を疲弊させ、深刻な認知的疲労(Cognitive Fatigue)、注意力の欠如、そして慢性的なストレスや不安を引き起こしている 。哲学者のヨゼフ・ピーパーの概念を借りれば、現代人の脳は、常に論理的で処理速度を求める「比率(Ratio)」のモードで駆動し続け、深く受容的で創造的な「知性(Intellectus)」のモードを失っている状態にある 。
キリスト教的な「祈り」の脳科学的メカニズム:社会的認知と愛着のネットワーク
キリスト教における人格神に対する「祈り(Prayer)」は、脳の「社会的認知」および「愛着(Attachment)」のネットワークを強く活性化させることがfMRI等の研究で示されている 。
- メンタライジングとデフォルト・モード・ネットワーク(DMN): 個人が神に対して対話的に祈る際、脳の「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」(特に内側前頭前野、後帯状皮質、楔前部、側頭頭頂接合部)が活性化する 。この領域は「メンタライジング(他者の心の状態や意図を推測する能力、Theory of Mind:ToM)」を司る領域である 。祈る者は、神という超越的な他者の意図や愛を推測し、関係性を構築しようとするため、人間の親密な対人関係(愛着形成)と非常に近い神経パターンを示す 。
- 報酬系による感情の安定: また、祈りはドーパミン系の報酬回路である「尾状核(Caudate)」を活性化させることが確認されている 。全知全能の神に自己の不安を委ねる(外部へのオフロード)ことで、安心感や愛されているという感覚を得て、ストレスホルモンを低減させる。これが祈りによる心理的癒やしのメカニズムである 。
仏教的な「瞑想」の脳科学的メカニズム:注意の制御とDMNの抑制
一方、仏教の瞑想(サマタ瞑想やヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス)は、外部の対象との対話や愛着関係の構築を目的としないため、全く異なる神経回路を再構築(ニューロプラスティシティ)する 。
- DMNの抑制(Deactivation): 祈りがDMNを活性化させるのに対し、仏教の瞑想はDMNの活動を著しく「抑制(Deactivation)」する 。現代人の情報過多による脳疲労や不安は、DMNの過剰な活動(過去の後悔や未来の不安を反芻する「マインドワンダリング / モンキーマインド」)に起因している 。瞑想はこの自己言及的なノイズを強制的にシャットダウンし、脳に休息をもたらす 。
- 前頭前野の肥厚と扁桃体の縮小: 長期的な瞑想の実践は、注意の持続や自己コントロールを司る前頭前野の皮質の厚さ(および脳回の複雑さ)を物理的に増加させる 。同時に、恐怖やストレス反応のセンサーである「扁桃体(Amygdala)」の体積を減少させ、その活動を鎮静化する 。これにより、外部からネガティブな刺激(情報の氾濫など)を受けても、自動的・反射的なパニックや感情的反応を引き起こさない「非反応性(デカップリング)」の構造が脳内に形成される 。
- 脳のクリティカリティ(臨界性)とコンパッション: 2025年および2026年に発表された、熟練した仏教僧の脳磁図(MEG)を用いた最新の国際共同研究によれば、ヴィパッサナー瞑想は脳のダイナミクスを「臨界性(Brain Criticality)」と呼ばれる状態に導くことが判明している 。臨界性とは、統計物理学の概念で「完全な秩序」と「完全なカオス」の境界にある最適なバランス状態を指す 。この状態の脳は、注意を一点に安定させる「強固さ」を持ちながら、新しい情報に即座に適応する「極めて高い柔軟性」を同時に発揮する 。 さらに、慈悲の瞑想(Compassion Meditation)は、単なるリラクゼーションを超え、他者の痛みを処理するネットワークを活性化し、社会的バイアス(内集団・外集団の分断)を減少させる効果があることが示されている 。
メカニズムの比較要約
| 神経認知的特徴 | キリスト教的な「祈り」 | 仏教的な「瞑想(マインドフルネス・慈悲)」 |
| 主要な関与ネットワーク | 社会的認知、心の理論(ToM)、愛着ネットワーク | 実行機能、前頭頭頂的注意ネットワーク、島皮質(内受容感覚) |
| DMN(デフォルト・モード・ネットワーク) | 活性化: 神への意図の推測、自己と神の対話的関係の構築 | 抑制: 自己言及的な思考の反芻(マインドワンダリング)の停止 |
| ストレス軽減のアプローチ | 関係性の構築: 超越的存在への依存と委ねによる安心感、報酬系の刺激 | 構造的再配線: 扁桃体の鎮静化による感情のデカップリング、前頭前野の強化 |
| 情報過多(脳疲労)への効果 | 不安の外部へのオフロード(心理的軽減) | 注意力というリソースの直接的な訓練と回復。脳の「臨界性」による情報処理の最適化 |
このように、キリスト教の祈りが「関係性を通じた感情の安定」をもたらすのに対し、仏教の瞑想は、情報過多によって暴走する脳の回路を物理的に「再配線(Neuroplasticity)」し、注意のコントロールを取り戻すという、より直接的かつ構造的な脳のチューニングとして機能している 。
結論:ポストモダンにおけるレジリエンスのアーキテクチャ
現代社会が直面する危機は、単なる経済的・政治的な問題に留まらず、人間の認知と意味の生成構造そのものを脅かす実存的な危機である。外部の超越者に救済を求める一神教的パラダイムや、進歩主義という「大きな物語」、そしてそれらの喪失の反動として現れた自己中心的なニューエイジ・スピリチュアリズムや排他的なアイデンティティ政治は、いずれも複雑で流動的な現代の現実に対して十分な適応力を持ち得ない。
本報告書の学際的な分析が示すように、仏教の思想と実践は、この複合的な危機に対して極めて有効かつ堅牢な「レジリエンスのアーキテクチャ」を提供する。
- 比較宗教学的・哲学的次元において: 仏教は、絶対者への依存を脱し、無常と無我という現実の客観的法則を直視させる。苦しみの原因を「執着」という認知のバグに見出し、論理的かつ実践的にそれを解体するアプローチは、予測不可能な現代を生きる個人の心に、外部環境に依存しない自己完結的な深い癒やしをもたらす。
- 社会学的な次元において: 「空」と「縁起」の思想は、大きな物語の終焉後に社会を分断しているアイデンティティの固定化を解除する。自己と他者、内集団と外集団の境界が絶対的なものではないことを認識させることで、対立する他者へのコンパッション(慈悲)を伴う「静かなるエゴ」を育み、社会的な対話の基盤を再構築する。
- 認知科学的な次元において: 瞑想の実践は、情報過多によってオーバーヒートした脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)を物理的に鎮静化させ、扁桃体の反応性を低下させる。祈りが他者との結びつきによる心理的慰めを提供するのに対し、瞑想は脳を「臨界性」という最適な状態にチューニングし、認知的な柔軟性と注意力を直接的に回復させる科学的ツールとして機能する。
仏教は、現実から逃避するための鎮痛剤ではない。それは、人間の認知の歪みを修正し、不確実で分断された世界を「あるがまま」に受容し、その上で他者と共存していくための、極めて高度で現実的な実践体系なのである。