パンデミックとグローバル資本主義の臨界点:スラヴォイ・ジジェクの哲学が暴く「現実界」の侵入と新たな連帯の条件
2020年代初頭に突如として世界を覆い尽くした新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックは、単なる公衆衛生上、あるいは医療システム上の危機にとどまらず、人類の存在論的、経済的、そして政治的基盤を根底から揺るがす未曾有の事態を引き起こした。この歴史的断層において、ヘーゲル主義、マルクス主義的イデオロギー批判、そしてジャック・ラカンの精神分析を横断する極めて特異な理論体系を展開し、「西側で最も危険な哲学者」とも称されるスラヴォイ・ジジェクは、事態の勃発からわずか100日余りという驚異的なスピードで著書『Pandemic!: Covid-19 Shakes the World』を緊急出版し、続いて『Pandemic! 2: Chronicles of a Time Lost』を発表した。
彼の目的は、パンデミックという事象を単なる疫学的脅威として処理することではなく、それを現代のグローバル資本主義システムに対する強烈な「徴候(Symptom)」として解読することにあった。ジジェクは特有のシニカルなユーモアと逆説的(パラドクシカル)な論法を駆使し、ウイルスが我々の日常を支えていたイデオロギー的幻想をいかにして打ち砕いたかを冷徹に分析している。本報告書は、ジジェクの哲学的・政治的分析の核心を、4つの探求の軸に沿って徹底的かつ構造的に解明し、さらに今後の地政学的なパワーバランスの変容や「グレート・リセット」の虚構に対する洞察を総括するものである。
1. グローバル資本主義への「キル・ビル」的打撃――五点掌爆心拳とシステムの遅延された死
パンデミックの勃発に際し、ジジェクは現代思想の文脈にポップカルチャーを接続する彼特有の手法を用い、このウイルスがグローバル資本主義システムに対して、クエンティン・タランティーノ監督の映画『キル・ビル Vol.2』に登場する必殺技「五点掌爆心拳(Five Point Palm Exploding Heart Technique)」を打ち込んだと表現した。
映画のクライマックスにおいて、主人公のベアトリクスは宿敵ビルに対してこの伝説的な武術の奥義を放つ。この技は、標的の身体の5つの異なるツボを指先で突くものであり、技を受けた者は、最初は痛みがなく普通に立ち上がって会話さえできるが、ちょうど5歩を歩いた瞬間に心臓が破裂して絶命する。ジジェクのパラドクシカルな見立てによれば、現代のネオリベラル資本主義は、まさにこの「ビル」と同じ状態にある。ウイルスによる決定的な死の一撃を受けたにもかかわらず、資本主義システムは未だに自分が死の淵にあることを自覚しておらず、一時的な経済対策や市場の再開によって元の「正常な状態(ビジネス・アズ・ユージュアル)」に戻れるという幻想を抱きながら、死に至るまでの「最後の5歩」を歩いている生ける屍(リビング・デッド)の状態に過ぎないというのである。
隠蔽されていた構造的欠陥の露呈と「エッセンシャル」な階級の発見
この比喩が意味するのは、グローバル資本主義が本質的に抱えていた脆弱性と、平時には強力なイデオロギーによって覆い隠されていた構造的欠陥の残酷なまでの露呈である。現代の資本主義は、ジャスト・イン・タイム方式に過度に依存したグローバル・サプライチェーンを構築してきたが、これは一つの地域でのロックダウンや工場閉鎖によって瞬時に世界的規模の機能不全に陥る脆いネットワークであった。さらに、パンデミックは、エッセンシャルワーカーやケアワーカー、そして農業における季節労働者といった、これまで極限まで搾取され、見えない存在とされてきた「新たな労働者階級(ジオ・ソーシャル・クラス)」の労働なしには、我々の日常生活はおろか資本主義経済そのものが1日たりとも存続できないという冷酷な事実を白日の下に晒した。
資本の「狂気じみた合理性」は、これまで医療や公衆衛生といった社会的インフラを民営化し、効率化の名の下に予算を削減し続けてきた。しかし、ウイルスという外部からの非合理的な衝撃に対して、市場メカニズムは全くの無力であった。ジジェクは、平時には財政赤字を理由にわずかな福祉予算すら削減してきた各国の政府が、システム崩壊の危機に直面した途端に、あたかも魔法のように数兆ドルもの天文学的な資金を「無から」創出し、市場に注入した事実を鋭く指摘する。これは、資本主義というシステムが、それ自体としては自己調整能力を持つ自然法則でも何でもなく、国家による巨大な介入と保護なしには存立し得ない虚構の構築物であることを決定的に証明してしまった。
トイレットペーパー・パニックと消費資本主義の不条理
資本主義の脆弱性を象徴する最も滑稽かつシニカルな現象として、ジジェクは世界中で発生した「トイレットペーパーの買い占め騒動」を挙げる。パンデミックの初期において、トイレットペーパーはまるでダイヤモンドのように貴重な商品となった。ジジェクはこれを、消費資本主義におけるパラドックスの極致として分析する。平均的な消費者は「自分自身はトイレットペーパーが不足するという噂など信じておらず、パニックにも陥っていない」と理性的に考えている。しかし、「『他の愚かな人々』がその噂を信じて買い占めに走るに違いない」という恐怖から、先回りして自らも買い溜めに走る。この「他者の欲望の模倣」と「他者のパニックに対するパニック」が連鎖することで、現実には存在しなかったはずの「欠如(実際の品不足)」が自己成就的予言として市場に生み出されてしまうのである。
ジジェクの結論は明確である。グローバル資本主義はCOVID-19を自律的に封じ込めることはできない。なぜなら、市場の論理そのものが、連帯や公衆衛生よりも利潤と資本の循環を優先する「死の欲動(デス・ドライブ)」として機能しているからである。キル・ビルの奥義を受けた資本主義が、完全に心臓を破裂させて倒れるまでのこの短い猶予期間(Time Lost)において、我々は根本的なシステムの再考を迫られている。
2. 「新たな共産主義(New Communism)」か「野蛮(Barbarism)」か――破局が強いる二者択一と「連帯」の再定義
五点掌爆心拳を受けた資本主義の崩壊が避けられないとするならば、その後に到来するのはどのような世界か。ジジェクはここで、人類が直面しているのは単なる政策的選択ではなく、「新たな共産主義(New Communism)」か「野蛮(Barbarism)」かという、極めて根源的かつ残酷な二者択一であると高らかに宣言する。
「人間の顔をした野蛮」と社会的ダーウィニズムの浮上
ジジェクが危惧する「野蛮」とは、映画『マッドマックス』のような暴力的な無政府状態のことではない。それは、高度に洗練された資本主義の論理のもとで正当化される「弱肉強食」のシステム、すなわち「人間の顔をした野蛮(Barbarism with a human face)」である。
パンデミックの初期から中期にかけて、欧米の政治家や保守派のコメンテーターたちの間で、経済の停滞を避けるためには「老者や基礎疾患を持つ弱者が犠牲になるのもやむを得ない」とする言説が公然と語られた。例えば、米国のトランプ政権下において、「治療法(ロックダウンなど)が問題そのもの(ウイルス)よりも悪質なものであってはならない」という論理が展開され、テキサス州のダン・パトリック副知事は「米国経済を犠牲にするくらいなら、自らを含む高齢者は死のリスクを冒すべきだ」と主張した。ジジェクによれば、これは生産性を持たない余剰な生命を容赦なく切り捨てる社会的ダーウィニズムであり、経済(資本の循環)を救うために生命を犠牲の祭壇に捧げるという、究極の資本主義的・生政治的な野蛮への退行を意味している。
災害共産主義(Disaster Communism)としての「新たな共産主義」
この野蛮への転落に対抗する唯一の処方箋としてジジェクが提唱する「新たな共産主義」は、20世紀に存在したソ連型の権威主義的・全体主義的な国家統制への回帰を意味するものではない。彼が意図するのは、差し迫った脅威に対抗して人類が生き延びるために要請される、極めてプラグマティックな「災害共産主義(Disaster Communism)」あるいはグローバルな連帯のネットワークである。
ジジェクは、医療物資の世界的配分の調整、民間病院の事実上の公有化(国家による一時的な接収や病床の強制確保)、さらには普遍的ベーシックインカム(UBI)の導入に向けた議論といった、パンデミック下で各国が採用せざるを得なかった緊急措置の中に、すでに「共産主義的な要素」の萌芽を見出している。これらは、市場のメカニズムを意図的に制限し、経済を社会化する試みである。ジジェクは、共産主義とは未来のユートピア的な理想ではなく、「すでに現在進行形で起きている事態に与えられた名前」であると挑発的に述べる。保守派のボリス・ジョンソンや、資本家の筆頭であるビル・ゲイツでさえもが、公衆衛生の危機の前には市場の限界を認め、ある種の社会主義的な介入を支持せざるを得なかったという事実が、これを証明している。
ここでジジェク特有の逆説が光る。彼は「私は人々の間の理想化された連帯や利他主義に訴えかけているのではない」と明言する。むしろ、グローバルな連帯と協力こそが、ウイルスや気候変動といった全人類的な危機において、個人が生き残るための「唯一の合理的でエゴイスティック(利己的)な行動」に転化したのだという。国家の枠を超えた権限を持つグローバルな保健機構の設立や、国家主権を一部制限してでも全人類的な課題に対処する権力構造の構築こそが、彼が描く「新たな共産主義」の輪郭である。これは、資本主義的リアリズムに対する左翼の夢想ではなく、生存のための冷徹な絶対条件(サバイバル・インペラティヴ)としての共産主義である。
3. 生政治(ビオポリティクス)のパラドックス――アガンベンとの対立に見る「例外状態」の転倒
パンデミック下における国家権力の飛躍的な増大と、それに伴う市民生活への介入(ロックダウン、マスク着用義務、ワクチン接種の推進など)をめぐっては、現代思想界で激しい論争が巻き起こった。その中心にいたのが、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンである。アガンベンによる純粋な国家批判に対し、ジジェクがとったアンビバレントかつ逆説的なスタンスは、現代の生政治(ビオポリティクス)を読み解く上で極めて示唆に富んでいる。
アガンベンによる「例外状態」と「剥き出しの生」の告発
ミシェル・フーコーの生政治(社会の人口動態や公衆衛生を管理・統制する権力の技術)の概念を継承・発展させたアガンベンは、一連のパンデミック対策を、国家が監視と統制を強化するための口実、すなわち「例外状態の常態化」に過ぎないと激しく批判した。アガンベンによれば、国家はウイルスという「見えない敵」を利用して意図的に恐怖とパニックを煽り、市民から移動の自由や集会の自由といった基本的権利を剥奪している。
アガンベンは、パンデミック時代を象徴する新たな政治的形象として「無症状の感染者(asymptomatic patient)」を挙げる。この体制下において、すべての人間は「潜在的な病原体」と見なされ、政治的・社会的な権利を剥奪された生物学的な「剥き出しの生(vita nuda / bare life)」へと還元されてしまう。市民は、常にワクチン証明書や陰性証明を提示し続けなければ社会参加を許されない「暫定的なアイデンティティ」しか持たず、生政治的なセキュリティ(バイオセキュリティ)が「新たな宗教」と化しているとアガンベンは警告した。彼の目には、健康と安全を理由にデジタル技術による監視を受け入れる現代社会は、人々を恒久的に従属させるネオ・フェーダル(新封建制)的なテクノクラート地獄に他ならない。
ジジェクの反論:資本主義の自己破壊(セルフ・サボタージュ)への支持
これに対し、ジジェクは真っ向から反論を展開する。彼は、国家による厳格なロックダウンやソーシャル・ディスタンシングの強制を「完全に正当化される」ものであり、さらには「解放的(liberating)」ですらあると主張した。
ジジェクから見れば、アガンベンのような「国家の監視と統制」に対する純粋なリベラル左派的批判は、現実に進行しているウイルスの物質的脅威や、エッセンシャルワーカーたちの過酷な現実から目を背けたブルジョワ的な贅沢(抽象的な観念論)に過ぎない。ジジェクがロックダウンを支持する逆説的な理由は、それが国家権力の強化を意味するからではなく、むしろ「グローバル資本主義の狂った組み立てラインを強制停止させ、自己破壊(セルフ・サボタージュ)させる」機能を持つからである。
日常の経済活動が停止することこそが、システムに致命的な打撃を与え、新たな連帯を生み出す余白を作る。したがって、ロックダウンを拒絶し、個人の「自由」を叫んで街に繰り出す右派やリバタリアンの抗議行動は、結局のところ資本主義システムの無慈悲な回転(ビジネス・アズ・ユージュアル)への回帰を要求しているに過ぎず、ロックダウンの拒絶は「変革の拒絶」と同義であるとジジェクは喝破する。
| 分析の軸 | ジョルジョ・アガンベン (Giorgio Agamben) の視座 | スラヴォイ・ジジェク (Slavoj Žižek) の視座 |
| ウイルスの位置づけ | 国家が「例外状態」を常態化するために利用・誇張した政治的口実。 | 資本主義の作動を強制停止させる、現実的かつ物質的な自然の脅威。 |
| ロックダウンの評価 | 政治的自由の完全な剥奪。市民を生物学的な「剥き出しの生」へ還元する全体主義的措置。 | 資本主義の組み立てラインを破壊し、社会を停止させる「解放的」な機能を持つ正当な措置。 |
| 国家権力と監視 | バイオセキュリティをイデオロギーの番犬とする権威主義体制(テクノクラシー)の完成。 | 危機を市場任せにできず、結果として経済的利益よりも生命を優先せざるを得なくなった権力の限界の露呈。 |
| 市民の自由 | 制限に抗い、社会的交流と政治的権利を維持すべき。 | 現在の自由の主張は、資本の論理への従属にすぎない。真の自由はシステムの外部を志向すること。 |
「Noli me tangere」と逆説的な連帯(ヘーゲル的愛の弁証法)
さらにジジェクは、ソーシャル・ディスタンシング(物理的距離の確保)の倫理的意味を、キリスト教神学とヘーゲル弁証法を用いて美しく転倒させる。彼は著書の冒頭で、ヨハネによる福音書第20章17節における、復活したキリストがマグダラのマリアに向けた言葉「私にすがりつくのはよしなさい(Noli me tangere / Touch me not)」を引用する。
ジジェクによれば、キリストは物理的な身体的接触を拒絶することで、より高次な精神的連帯(聖霊による愛の結びつき)の次元へとマリアを導いた。これと同様に、パンデミック下の我々にとって「愛する対象から距離を置くこと」こそが、最大の愛の倫理的実践となったのである。若き日のヘーゲルが論じた「愛」の弁証法によれば、愛する者は自己の一部であると同時に、決して完全に把握することのできない「謎(riddle)」や「奇跡(miracle)」として留まる。私たちは互いに触れることができない不可触(アンタッチャブル)な存在となることによってのみ、共通の脅威に対するグローバルな連帯を実現できる。
すなわち、「我々は互いに孤立し、距離を置くことによってのみ、真に共にあることができる(連帯できる)」という究極のパラドックスが、現代における真の倫理的コミュニティの基盤となったのである。この視点において、アガンベンが嘆いた「身体的接触の喪失による共同体の死」は、ジジェクにとっては「より普遍的な共同体(新たな共産主義)の誕生のための陣痛」として再解釈される。
4. イデオロギー的幻想の崩壊と「現実界(The Real)」の侵入――ラカン派精神分析から見たウイルスの無意味さ
ジジェクのパンデミック分析を最も深淵かつ独自のものにしているのは、ジャック・ラカンの精神分析理論を用いた、存在論的次元での考察である。ジジェクはウイルスという脅威を、ラカンの三界(想像界、象徴界、現実界)のトポロジーにおける「現実界(The Real)」のトラウマ的な侵入として位置づけた。
意味を欠いた「現実界」のトラウマ的侵入
ラカンの定義において「現実界(The Real)」とは、我々が言語、法、文化を通じて構築する「象徴界(Symbolic order)」のネットワークでは決して捉えきれず、意味化することが不可能な、不気味でトラウマ的な領域(あるいはシステム内の修復不可能な亀裂・空白)を指す。
グローバル資本主義と高度なテクノロジーの庇護のもとで、我々は自然環境までも完全に制御し、予測可能であるという「イデオロギー的幻想(想像界と象徴界の織りなす現実感)」の中で生きてきた。しかし、新型コロナウイルスは、人間の言語や意図など全く解さない、自己複製と変異をひたすら繰り返すだけの「盲目的で無意味な自然のメカニズム」に過ぎない。それは、人間中心主義的な象徴界の秩序を無残に切り裂き、いかなる意味付けや象徴的対話も拒絶して突如として侵入してきた「現実界」そのものである。
H.G.ウェルズの古典的SF小説『宇宙戦争』において、高度なテクノロジーを持ち地球を無慈悲に征服した火星人が、最終的には地球の微小なバクテリアへの免疫を持たなかったために滅亡したように、今回のパンデミックでは、地球環境を極限まで搾取してきた我々人類(火星人)が、神の創造物の中で最も卑小なウイルスによって社会システムの機能停止に追い込まれたのである。ジジェクはここで、ヘーゲルの『精神現象学』における有名な命題「精神は骨である(Spirit is a bone)」を逆転させ、「精神はウイルスである(Spirit is a virus)」と述べる。人間の精神(言語や文化、あるいは資本主義体制)は、あたかもウイルスのように人間という動物に寄生し、自己増殖のために宿主を搾取してきた。しかし今回は、物質的なウイルスがその精神のネットワーク自体に寄生し、それを破壊しようとしているのである。
象徴界の機能不全と「イデオロギー的幻想」への逃避
この「現実界」の無意味な侵入に対して、人間は強烈な防衛反応を示す。人々はウイルスに対して「人間の驕りに対する神の罰」「自然の母(マザー・ネイチャー)からの復讐」「中国の研究所で作られた生物兵器」、あるいは「5Gネットワークが引き起こした電磁波障害」といった、数々の陰謀論的・道徳的な物語を与えようと狂奔した。ジジェクによれば、これらはすべて、無意味なものに何とか意味(象徴界の枠組み)を与え、自己の存在論的不安を解消しようとする「イデオロギー的幻想」への逃避に過ぎない。現実には、ウイルスにはいかなる隠されたメッセージも意図も存在しないのである。
私たちは「大文字の他者(Big Other)」(社会の秩序や意味を保証する究極的な審級)が存在しないという恐ろしい事実に直面した。前述したトイレットペーパー・パニックも、この文脈においてより深く理解される。トイレットペーパーは、糞便という人間の動物的・汚物的な現実(排泄物=対象a)を拭い去り、人間を文明的で象徴的な存在へと引き上げるための最小限の防波堤である。ウイルスの脅威によって象徴界が崩壊の危機に瀕したとき、人々はトイレットペーパーという文明の象徴に執着することで、迫り来る「現実界」の恐怖から自己の尊厳を防衛しようとしたのである。
冗談(ジョーク)と冷笑主義によるイデオロギーの補完
さらにジジェクは、パンデミック下で人々が交わす皮肉やジョークが果たすイデオロギー的機能についても分析を行う。ラカン派言説分析によれば、ジョークに対する「笑い」は、抑圧された不安を和らげる「笑いの治療法(therapeutics of laughter)」として機能すると同時に、既存の権力構造やマスターシニフィアン(支配的シニフィアン)に対する人々の服従を維持するための「リビドー的備給(libidinal investment)」として作用する。
ジジェクが自身の著書や講演で多用するジョーク(例えば、モンゴルの戦士に妻を犯された農夫が、戦士の睾丸が自分の埃まみれの尻に触れたことだけで「抵抗」したと喜ぶジョークなど)は、我々が直面している悲惨な現実の「暗黒面」から目を逸らさせる機能を持つ。現代人は「物事の本当の姿(資本主義の残酷さやウイルスの無意味さ)をよく知っているが、それでもなお、知らないかのように振る舞う」という冷笑主義(シニシズム)に陥っている。ジジェクは、この「知っているが、それでもなお(je sais bien, mais quand même)」という構造こそが現代の「イデオロギー的幻想」の核心であり、パンデミックにおける我々の無力感を再生産していると指摘する。
5. 結論:グレート・リセットの虚構と迫り来る地政学的転換――「視差の推移(Parallax View)」が指し示す未来
スラヴォイ・ジジェクによるCOVID-19パンデミックの分析は、単なる公衆衛生危機への評論や、左派的な資本主義批判の域を遥かに超えている。それは、今後の世界システムがどのような地政学的パワーバランスと構造的転換(マクロ・トランスフォーメーション)を迎えるかを示す、極めて重層的な予言の書でもある。彼の論理的帰結として、世界は元の状態に戻ることは決してなく、我々は新たな統治のパラダイムを構築しなければならない。
「グレート・リセット」という新たなイデオロギー的欺瞞
パンデミックを契機として、世界経済フォーラム(WEF)のクラウス・シュワブを中心とするグローバル・エリートたちは、「グレート・リセット(The Great Reset)」という概念を打ち出した。彼らは、従来の株主至上主義から脱却し、環境(気候変動)や人権、社会的公正に配慮したステークホルダー資本主義へとシステムをアップデートする「より公平で人間的な資本主義」への再構築を主張している。
しかし、ジジェクはこの企業主導のグレート・リセットを、資本主義的抑圧をより高い次元の技術的複雑さとバイオセキュリティの管理下で再生産するための「イデオロギー的な番犬」であると痛烈に批判する。ジョー・バイデン米大統領が掲げたような「礼儀正しさとウェルビーイング」に包まれた資本主義への回帰は、ビル・ゲイツやジェフ・ベゾスといったプラットフォーマーたちが「コモンズ(通信網やソフトウェア、知的財産などの共有財)」を独占・民営化し、レント(地代)を搾取し続けるという本質的な階級闘争の現実を覆い隠すための「フランシスコ会的な資本主義(Franciscan capitalism)」に過ぎない。
勝者の「共感(エンパシー)」や慈善事業に依存するこのシステムは、究極的にはテクノロジーを独占する少数の支配層と、それに隷属する大多数の労働者という、「300万人の領主と3億5000万人の農奴」によるテクノ・ネオフェーダリズム(技術的新封建制)をもたらすだけである。
ジジェクがこれに対抗して要請するのは、コーポレート・リセットではなく「社会主義的リセット(Socialist Reset)」である。それは、科学的知見にただ従うだけでなく、経済システムそのものが将来の緊急事態に耐えうるように、国家の介入とグローバルな連帯を通じて市場メカニズムに社会的な制約を課す「適度に保守的な共産主義(moderately conservative Communism)」の確立である。これは、人間の生命活動の「基礎的な条件」を保守(コンサーブ)するための急進的な枠組みである。
| 構造転換の方向性 | コーポレート・リセット (WEF / 資本主義的) | 社会主義的リセット (ジジェク / 新たな共産主義) |
| 主導主体と統治 | グローバル企業、巨大テック、慈善資本家によるテクノクラシー。 | 調整された国家ネットワーク、グローバルな公的機関。 |
| システムの目標 | テクノロジーとバイオセキュリティによる効率的なリスク管理と資本蓄積の継続。 | 人類の生存確保、コモンズの防衛、市場の暴走に対する社会的制御。 |
| 社会階層の未来像 | 勝者の「共感」に依存したネオ・フェーダル的支配(少数の領主と多数の農奴)。 | 「適度に保守的な共産主義」(生命の基礎条件を保守するための経済の社会化)。 |
| 危機に対する態度 | 危機を商機(ショック・ドクトリン)とみなし、資本主義をより洗練された形へアップデートする。 | 危機を資本主義の絶対的限界とみなし、経済システム自体を戦時経済的に再編する。 |
地政学的パワーバランスの移行と「視差の推移」
マクロな地政学の視点において、パンデミックは米中間の覇権闘争を劇的に加速させた。ウイルスの起源やワクチンの供給をめぐるナショナリズムの激化は、各国の主権を絶対視し、多国間協力を拒絶する「ナショナルな孤立主義」への退行の危険性を示している。
ジジェクは、これからの世界が「グローカルなアプローチに基づく世界的な連帯」に進むのか、それとも「主要な国際勢力を持たず、地域大国が林立するだけの国家の孤立化(そしてその結果としての野蛮)」へと退行するのかの瀬戸際にあると警告する。特にヨーロッパは、パンデミックの物理的被害に加え、ドイツの自動車産業に象徴される輸出依存経済の停滞、さらには難民問題やポピュリズムの台頭という「パーフェクト・ストーム」に直面している。
この複雑な地政学的状況において、ジジェクはヘーゲル的・ラカン的な「視差の推移(Parallax View)」という概念を提示する。問題の真理は、アメリカの自由主義的資本主義モデルと、中国の権威主義的監視モデルの中間(ジンテーゼ)にあるのではない。真理は、二つの視点の間を行き来する、決して統合不可能な「視差」そのものの中に現れる。パンデミックという事象は、これまでの「正常な状態(Normality)」がいかに例外的な権力と支配関係の上に成り立っていたか(Normality of the normal)を暴露した。
したがって、パンデミックに対する最終的な政治的・哲学的応答は、ウイルスというアンチテーゼに対して、単にかつての資本主義というテーゼへと後退し、幻想の日常を再建することではない。それは、ヘーゲル弁証法的な「否定の否定(Aufhebung / 止揚)」を通じて、我々の社会システムそのものが「いかにあるべきか」を全く新しい地平で再定義し、肯定し直すという、過酷だが避けて通れない政治的・倫理的闘争の始まりを意味しているのである。
キル・ビルの死の一撃を受けたシステムが完全に崩れ去るまでの猶予期間――まさにこの「失われた時間(Chronicles of a Time Lost)」の中で、我々が資本主義の呪縛を断ち切り、いかなる新たな連帯の形式(New Communism)を創出できるかによって、人類の次の歴史の輪郭が決定されるのである。