平和を定義できるのか?
1. 問いの再定義:哲学において「平和」とは何か?
「平和を定義することはできるのだろうか」という根源的な問いは、人類の思想史において絶えず繰り返されてきた深遠なるアポリア(難題)である。日常的な直観において、平和は単なる「戦争の不在」あるいは「暴力の欠如」として理解されることが多い。しかし、政治哲学、倫理学、そして存在論(オントロジー)の視点から見つめ直すとき、平和という概念は極めて多義的であり、本質的に論争を呼ぶ概念(Essentially Contested Concept)であることが明らかになる。いかなる平和を構想するかは、その背後にある「人間本性への理解」および「社会秩序の究極の目的」と不可分に結びついているためである。
哲学的な前提を整理する上で、第一に問われるべきは、「平和は到達可能な静的な『状態(state)』なのか、それとも絶え間ない『プロセス(process)』なのか、あるいは永遠に到達不可能な統制的理念(イデア)なのか」という認識論的対立である。社会学者マックス・ヴェーバーが看破したように、近代国家の本質は「正当な物理的暴力の行使の独占」にある。この枠組みに従えば、国家という安定した制度が確立され、市民が暴力から解放されて生活できる「状態」が平和の基礎となる。しかし、平和を単なる「既存の何かが欠如している状態(void)」として扱うことは、分析上の複数の問題を引き起こす。対立と平和は、社会的なプロセスの中で密接に結びついた存在であり、紛争が特定の行動パターンとして現れるのと同様に、平和もまた固有の行動パターンや調和、統合といった実証的なプロセスとして現れるからである。
近年の平和学や紛争解決の哲学は、平和を「状態」としてではなく「プロセス」として定義し直す存在論的な再定立(ontological reorientation)を試みている。平和をプロセスとして捉える立場は、人間社会から対立や葛藤を完全に排除することは不可能であるという現実的な前提に立ち、それらの対立を非暴力的に管理し、基本的人間的欲求を満たすための社会的条件を改善し続ける継続的な実践(work in progress)こそが平和であるとする。
第二に、平和という概念には「何が存在しないか(暴力や恐怖の不在)」という消極的な側面に加え、「何が存在しているか(正義、秩序、自由、制度の現前)」という積極的な側面が常に付き纏う。ある思想家にとって平和とは強力な権力によって強制された無機質な秩序であり、別の思想家にとっては理性的同意と正義に基づく普遍的連帯である。例えば、国家権威主義的なアプローチによって反対派を抑圧し、物理的な空間と政治的言説を支配することによって達成される「非自由主義的な平和(illiberal peace)」や、外部からの強制によって構築される「仮想の平和(virtual peace)」は、真の平和の概念的理想から乖離していることが指摘されている。
本稿では、歴代の主要な哲学者が直面した苛烈な時代背景と、それに伴う独自の人間観(性善説や性悪説など)を紐解きながら、「なぜ彼らは平和をそのように定義せざるを得なかったのか」という思考の軌跡を浮き彫りにする。さらに、彼らの思想の対立と継承のダイナミズムを追うことで、現代の複雑極まる世界において平和概念がいかにアップデートされるべきかを論証していく。
2. 思想史における「平和」の系譜(主要な哲学者たちの視点)
思想史において平和の概念は、神学的な規範論から、世俗的な社会契約論、理性に基づく制度論、そして社会構造の変革を志向する構造論へと劇的なパラダイムシフトを遂げてきた。以下に、その転換点を画した代表的な思想家たちの軌跡を対比的に論じる。
2.1 神の秩序と「真の平和」:アウグスティヌスとトマス・アクィナス
西洋思想において、平和の概念に最も深い神学的・倫理的基盤を与えたのは、アウレリウス・アウグスティヌス(354–430年)とトマス・アクィナス(1225頃–1274年)である。彼らの思想の根底には、平和を単なる戦争の不在ではなく、神の法に基づく「正義の実現」と不可分なものとして捉える強い規範的姿勢が存在する。
アウグスティヌスが生きた時代は、ゲルマン民族の侵入によって西ローマ帝国が崩壊へと向かう未曾有の混乱期であった。異教徒から「キリスト教の非暴力主義がローマの軍事的弱体化を招いた」と非難される中、彼は主著『神の国(De civitate Dei)』を著し、独自の平和論を展開した。アウグスティヌスは、キリスト教の教理に基づき、人間は「原罪(Original Sin)」によってその本性が致命的に傷ついているという徹底した悲観的人間観(性悪説的視座)に立っていた。人間の魂は原罪以降、常に「休まらない状態(inquietum)」にあり、この内なる無秩序が平和への渇望を生み出している。
彼によれば、平和の本質とは「秩序の安寧(Tranquillitas ordinis)」である。アウグスティヌスは「すべての事物の平和は、秩序の安寧である。秩序とは、平等なものと不平等なものを、それぞれにふさわしい場所に割り当てる配置のことである」と定義した。この視点において、地上の国家が築く平和は、利己心と自己愛に基づく「地上の国」の妥協的で一時的な産物に過ぎない。真の平和(天上の国の平和)は、人間が神を愛し、神の永遠法に従って魂と社会が完全に調和したときにのみ訪れる。このため、圧政や不当な支配のもとで物理的な紛争が起きていないだけの状態は、秩序が歪んでいるがゆえに真の平和とはみなされない。
中世盛期において、アウグスティヌスのこの神学的平和観をアリストテレスの徳倫理学と融合させ、より精緻な体系へと昇華させたのがトマス・アクィナスである。アクィナスは主著『神学大全(Summa Theologica)』の第2部第2部第40問において、「戦争と平和」の倫理的ジレンマを正面から論じた。新約聖書の「悪人に手向かってはならない(マタイ5:39)」といった非暴力の教えに対して、キリスト教徒がいかにして武力行使を正当化できるかという反論(Objection)に対し、アクィナスはアウグスティヌスを引用して答えた。すなわち、「我々は戦争をするために平和を求めるのではなく、平和を得るために戦争に行くのである。したがって、戦争においても平和を志向せよ」という論理である。
アクィナスは、平和(秩序の安寧)を回復するための条件付きの武力行使を「正戦(Just War)」として定式化し、以下の3つの厳格な要件(jus ad bellum:開戦の正義)を提示した。
- 主権者の権威(Authority of the sovereign):私人が私怨で戦争を起こすことは許されず、公共の善を守る国家の主権者のみが戦争を布告できる。
- 正当な原因(Just cause):敵対する国家が過去の不当な行為を是正することを拒否したり、不当に奪ったものを返還しないなど、何らかの過ちによって罰せられるべき明確な理由が必要である。
- 正しい意図(Right intention):戦闘員の意図は、善を促進し、悪を回避するものでなければならない。単なる復讐心や権力欲に基づく戦争は、いかに原因が正当でも不正となる。
また、アクィナスは戦争の遂行基準(jus in bello:交戦法規)についても言及し、戦争中であっても嘘をつかず約束を守るべきことや、聖職者は戦闘に参加すべきではないことなどを論じた。アウグスティヌスとアクィナスに共通しているのは、平和の対義語は単なる戦争ではなく「不正義(不当な秩序)」であるという確固たる信念である。彼らにとって、正義を回復するための戦争は、真の平和(Tranquillitas ordinis)に至るための悲劇的ではあるが道徳的に正当化されるプロセスであった。この「秩序の安寧」という概念は、現代のカトリック教会の平和教説や、国家間の枠組みにおいて正義と自由を構築しようとする現代の国際政治論考にも引き継がれている。
2.2 自然状態と社会契約:トマス・ホッブズとジョン・ロック
中世の神学的・目的論的な平和観から、近代の世俗的・制度的な平和観への巨大なパラダイムシフトをもたらしたのが、17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズ(1588–1679年)とジョン・ロック(1632–1704年)である。彼らは神の秩序から演繹するのではなく、「自然状態(State of Nature:国家や法が存在しない仮想の初期状態)」という理論的フィクションを用い、人間の根本的な本性から帰納する形で平和と国家の存在理由を再構築した。
ホッブズの主著『リヴァイアサン』は、イングランド内戦(清教徒革命)という血みどろの殺戮と無政府状態の只中で執筆された。この野蛮で混乱した時代背景は、彼の冷徹な人間観に決定的な影響を与えた。ホッブズは、人間を本質的に利己的で「自己保存(生存)」の欲求に突き動かされる唯物論的な存在として捉えた。法も共通の権力も存在しない「自然状態」においては、すべての人間が自己保存のためにあらゆる手段(他者の命や財産を奪うことすらも)をとる「自然の権利」を持つ。その結果、人々は互いに恐れ合い、先制攻撃を最も合理的な生存戦略として選択せざるを得なくなる。ホッブズはこの状態を「万人の万人に対する闘争(war of every man against every man)」と呼び、そこにおける人間の生は「孤独で、貧しく、険悪で、残酷で、そして短い(solitary, poor, nasty, brutish, and short)」と形容した。
しかし、人間は同時に理性を持つ存在でもある。ホッブズによれば、理性によって見出される第一の自然法は「すべての人間は、達成の希望がある限り、平和を希求し努力すべきである」という命題である。この破滅的な絶え間ない死の恐怖から抜け出すため、理性的で利己的な人間は、互いの自然権を放棄し、絶対的な権力を持つ単一の主権者(リヴァイアサン=国家)にすべての権力を譲渡するという「社会契約(Social Contract)」を結ぶことを選択する。ホッブズの哲学において、平和とは自然の恩恵ではなく、「圧倒的な国家権力の恐怖(抑止力)によって人為的・人工的に創出された暴力の不在」に他ならない。これが、現代における「消極的平和(Negative Peace)」の最も強力かつ直接的な源流である。
一方、ホッブズより一世代後のジョン・ロックは、名誉革命の理論的支柱として絶対王政に対する市民的自由の擁護を目指し、ホッブズとは異なる人間観と自然状態のビジョンを提示した。ロックにとっての自然状態は、ホッブズのような即座の殺し合いの場ではなく、人々が理性の法に従って生きる比較的平和で自由な状態(タブラ・ラサ:白紙状態からの経験的成長を重視)である。しかし、この状態には、他者の生命、自由、財産(Property)を侵害する者が現れた際に、それを公正に裁く普遍的な法律や公平な裁判官が存在しないという重大な「不便さ」が伴う。
ロックにおける社会契約は、無政府状態の恐怖からの逃走ではなく、人々が元々持っている自然権(生命、自由、財産)をより確実かつ安定的に保護・享受するための「信託(Trust)」に基づく合意であった。したがって、主権者(政府)がこの信託に背き、市民の財産や自由を不当に侵害した場合、政府そのものが市民に対して「戦争状態」を仕掛けたことになり、市民には政府を打倒する抵抗権(革命権)が生じると論じた。ホッブズが「無秩序(闘争)の絶対的支配からの回避」を至高の平和としたのに対し、ロックは「個人の自由と財産の制度的保障」を平和の不可欠な条件とした点に、両者の平和観の根本的な差異が存在する。このホッブズとロックの思想は、後のジャン=ジャック・ルソー(人間は本来善良であるが、社会制度や私有財産が人間を堕落させたとする視点)へと引き継がれ、近代民主主義政治理論の基礎を形成した。
2.3 理性と国際法に基づく制度的・恒久的な平和:イマヌエル・カント
ホッブズやロックの社会契約論が、主として一国内における国家権力と市民の平和的秩序の構築に向けられていたのに対し、国家間の戦争が絶えなかった18世紀末のヨーロッパにおいて、国際的な「恒久平和」の可能性を哲学的に立証しようとしたのがドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724–1804年)である。
1795年に発表された画期的な論文『永遠平和のために(Zum ewigen Frieden / Perpetual Peace: A Philosophical Sketch)』において、カントは人間本性を単なる性善・性悪の二元論で片付けず、「非社会的社会性(unsocial sociability / Antagonismus)」という極めて洞察に満ちた概念で捉えた。人間には、他者と結びついて社会を形成しようとする傾向(社会性)と、自己の利益を優先して他者と対立・競争しようとする傾向(非社会性)が同居している。カントは驚くべきことに、平和の基礎を人間の道徳的向上や純粋な善意には置かなかった。むしろ、人間の「悪」や「利己心」「好戦性」という現実的な要素こそが、自然の摂理(客観的なメカニズム)を通じて、最終的に人類を平和な法的秩序へと強制的に追い込んでいくと考えたのである。
例えば、人間の利己的な欲求の発露である「商業精神(金銭力)」は、本質的に戦争による破壊行為と共存できない。商業の発展は諸国家を経済的な相互利益で強く結びつけ、結果として戦争を回避し平和を維持するための調停役を国家に強いることとなる。カントは「悪魔の種族であっても、知性さえあれば国家を樹立できる」と語り、互いの利己心を牽制し合い相殺させる制度(システム)の巧拙こそが平和の鍵であると断じた。
『永遠平和のために』では、平和を実現するための具体的な法制約として「予備条項(Preliminary Articles)」と「確定条項(Definitive Articles)」が提示されている。 予備条項は、将来の戦争の火種を秘密裏に留保した平和条約の無効(第1条)、国家の売買・贈与の禁止(第2条)、常備軍の段階的かつ全面的な廃止(第3条)、対外紛争のための国債発行の禁止(第4条)、他国の体制への武力干渉の禁止(第5条)など、戦争の物理的・経済的手段を取り除くための緊急的なステップを定めている。これは現代の軍縮や内政不干渉の原則に直結する。
さらに重要なのが、恒久的な平和体制を制度化する3つの確定条項である。
- 第一確定条項(共和制の要請):各国家の市民的体制は「共和的(Republican)」でなければならない。カントは、戦争の決定権を専制君主が持つ場合、君主は戦費や流血の痛みを伴わないため安易に戦争を始めると指摘した。一方、共和制の下では、戦争の悲惨な代償(重税や死)を直接支払う国民(市民)自身が同意しなければならないため、国家は極めて戦争に慎重になる。これは現代国際政治学における「民主的平和論(Democratic Peace Theory:民主主義国同士は戦争をしない)」の理論的支柱となっている。
- 第二確定条項(自由な国家の連邦):国際法は、自由な諸国家の「連邦(Federation of free states)」に基づくべきである。カントは、単一の強大な世界帝国(普遍君主制)は専制と無秩序を招くとして否定し、主権を保ったまま諸国家が平和的合意によって結びつく連合体制を構想した。
- 第三確定条項(世界市民法):世界市民権は、普遍的友好(hospitality:訪問の権利)の条件に制限されなければならない。地球の表面は球体であり無限に分散できないため、人間は互いの存在を許容し、他国を訪れる権利を持つが、それは侵略や植民地支配を正当化するものではないとした。
カントの偉大さは、平和を個人の心の問題や一時的な休戦条約(truce)にとどめず、人間の利己的な本性を逆手に取った理性による「国際法」と「共和制」という恒久的な制度(システム)の問題へと昇華させた点にある。
2.4 構造的暴力の発見とパラダイムシフト:ヨハン・ガルトゥング
20世紀後半に入り、哲学と実践の交差点において平和概念に最大のパラダイムシフトを引き起こしたのが、ノルウェーの社会学者であり平和学(Peace and Conflict Studies)の創始者であるヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung, 1930–2024年)である。ガルトゥングが直面した時代的課題は、ホッブズやカントの時代の「国家間の軍事的戦争」だけではなかった。冷戦下における核兵器による「恐怖の均衡」、第三世界における極度の貧困と植民地主義的搾取、そして国内における根深い人種・階級差別(公民権運動の時代)など、目に見えない抑圧が蔓延していたのである。
ガルトゥングは、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗(サティヤーグラハ)の哲学に強い影響を受け、1969年の記念碑的論文『暴力、平和、そして平和研究(Violence, Peace, and Peace Research)』において、従来の平和概念を根本から解体・再構築した。彼は、ホッブズ以来の「戦争の不在」「物理的な直接的暴力の不在」としての平和を「消極的平和(Negative Peace)」と定義し、それだけでは現代の複合的な人類の苦難を説明しきれないと批判した。
この限界を乗り越えるため、彼は画期的な「構造的暴力(Structural Violence)」という概念を提唱した。構造的暴力とは、特定のアクター(行為者)が直接的に手を下して他者の身体を傷つける「古典的・直接的暴力(Direct Violence)」とは異なり、社会の制度、法律、経済システムの中に巧妙に組み込まれ、人々の基本的人間的欲求(寿命、健康、教育へのアクセス、尊厳)の達成を阻害する見えない抑圧のことである。ガルトゥングによれば、回避可能であるにもかかわらず社会構造によって引き起こされる「構造的に条件付けられた貧困(structurally conditioned poverty)」、制度的レイシズム(人種差別)、セクシズム(性差別)、階級主義などはすべて暴力の一形態であり、これらは早期死亡や不必要な障害の巨大な原因となっている。さらに彼は後年、これら直接的暴力や構造的暴力を「自然なもの」「正しいもの」として正当化し、受け入れさせてしまう宗教、イデオロギー、言語の働きを「文化的暴力(Cultural Violence)」と名付けた。
ガルトゥングの哲学において「積極的平和(Positive Peace)」とは、単に戦争や直接的暴力がないだけでなく、この構造的暴力と文化的暴力が排除され、社会正義が実現し、持続可能な経済発展や制度、調和のとれた態度が構築されている状態を指す。これにより、平和の定義は、国家権力による「軍事的安全保障」の領域から、人間の社会的・経済的・心理的な解放という「人間の安全保障(Human Security)」の領域へと劇的に拡張された。平和は「到達して終わる静的な状態」ではなく、常に社会構造の矛盾を明らかにし、改善し続ける「動的で変革的なプロセス」へと再定義されたのである。
| 思想家 | 生きた時代背景と課題 | 人間観の前提 | 平和の定義・概念的特徴 | 平和実現のメカニズム |
| アウグスティヌス アクィナス | ローマ帝国崩壊期 / 中世キリスト教世界 | 原罪を負った不完全な存在 / 徳を志向し得る存在 | 神の永遠法に基づく「秩序の安寧(Tranquillitas ordinis)」。正義の実現。 | 信仰と道徳的秩序の回復。時には正戦(正義の武力行使)による秩序の是正。 |
| ホッブズ | イングランド内戦 (無政府状態の恐怖) | 利己的で自己保存を最優先する存在。理性は死の恐怖から作動する。 | 万人の闘争の終結。強力な権力による「暴力の不在(消極的平和の原型)」。 | 万人による自然権の全面放棄と、絶対的主権者(リヴァイアサン)への服従。 |
| カント | 欧州における果てしない国家間戦争と近代国家の台頭 | 「非社会的社会性」。利己心と闘争心を持ちながら、理性でそれを乗り越える。 | 共和制と国際法に基づく制度的・恒久的な平和。戦争の完全な終結。 | 構成員の道徳心に頼らず、共和制、商業の相互利益、自由国家の連邦による牽制。 |
| ガルトゥング | 冷戦構造、南北格差、 公民権運動と抑圧 | 人間は構造や文化によって抑圧されるが、非暴力でそれを変革し得る主体。 | 「積極的平和」。直接的暴力のみならず、構造的暴力・文化的暴力の不在。 | 不平等を是正する制度改革、非暴力抵抗、対立を建設的に導く継続的プロセス。 |
3. 哲学的な論点とディスカッション
ここまでに見てきた思想史の系譜は、現代社会にも直結する二つの重大な哲学的な論点(ディスカッション)を我々に提示している。
3.1 人間の本性と平和:人間は本質的に闘争的なのか、平和を志向するのか?
平和の哲学は、常に「人間本性(Human Nature)」の解釈から出発する。人間が本質的に闘争的であるか、協調的であるかによって、平和を維持するためのアプローチは180度異なるものとなる。
ホッブズが洞察したように、人間が本質的に利己的であり、稀少な資源や名誉をめぐって闘争する存在であるならば、平和とは人間の自然な状態ではなく、強力な国家権力という「人工物」によって外から強制されるべき状態である。このホッブズ的リアリズムは、今日でも国際政治学における現実主義(ネオ・リアリズム)の根底に流れており、覇権国による圧倒的な軍事的抑止力や勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の維持こそが平和の要諦であるという思想の基盤となっている。
しかし、カントはこのホッブズ的見解を継承しつつも、見事な論理的跳躍と目的論的歴史観を見せる。カントは、人間の「非社会的社会性(闘争心や利己心)」を単に抑圧すべき悪とは見なさず、むしろ人類が停滞から抜け出し、潜在能力を開発するための「自然の原動力」として肯定的に捉えた。アダム・スミスの「見えざる手」の概念が経済領域で機能するように、カントは政治・国際関係の領域において、闘争や対立があるからこそ、人間は自らの生存と利益をより確実にするために知恵を絞り、結果として相互依存を強める国際的な法的枠組み(共和制と国際連邦)を創設するに至ると論じたのである。カントの視座は、「平和とは善意の産物ではなく、利己的な合理性の究極の帰結である」というパラドックスを提示している。経済学者アマルティア・センも指摘するように、カントの非社会的社会性の概念は、人間が個人の目的を追求しながらも、他者との公的な推論(public reasoning)や対話を通じて社会構造を洗練させていくプロセスを説明する強力な基盤となっている。
対照的に、ガルトゥングに代表される現代平和学は、ルソー的な人間観(人間は本質的に他者への同情心を持つが、不平等な社会構造が人間を堕落させる)に部分的に呼応し、闘争や暴力の源泉を人間の生得的な本性そのものよりも「構造(不平等な分配システムや差別的制度)」に見出す。この立場に立てば、平和の実現は人間の内面を暴力で威圧することではなく、人間が本来持つ豊かな潜在能力を十全に発揮できるような公正な社会構造を設計することに帰着する。
3.2 平和と正義のジレンマ:「不正な状態のままの平和」は真の平和か?
平和哲学における最も深刻かつ実践的なアポリア(難題)は、「平和(暴力・紛争の不在)」と「正義(権利の回復・悪の是正)」が衝突する場合のジレンマである。
古代ローマの哲学者・政治家であるキケロは「不正な平和であっても、正義の戦争に勝る(An unjust peace is better than a just war)」と語ったとされるが、アウグスティヌスやアクィナスの正戦論の系譜はこれを明確に否定する。独裁者による苛烈な圧政、マイノリティに対する大規模なジェノサイド、あるいは構造的暴力が日常的に蔓延する社会において、単に物理的な武力衝突が起きていないというだけの「消極的平和」を甘受することは、道徳的な退廃であり不正義への加担を意味する。正義なき平和は、強者や抑圧者にとって都合の良い現状維持(Status quo)に過ぎないからである。
ここから、「平和を維持、あるいは真の平和(正義)を回復するための『暴力』は正当化されるか」という根本的な問いが生じる。マックス・ヴェーバーが指摘したように、国家の平和(治安)は警察権力という正当な暴力の行使によって担保されている。アメリカの法学者エルンスト・フロイントが論じたように、近代国家における「警察力(Police power)」は、単なるコモンロー上の消極的な防衛(犯罪者の排除)から、公衆の福祉や社会的ニーズを積極的に促進・管理するための広範な規制権力へと拡張されてきた。国内においては、この警察権力による暴力の行使が「平和の維持」として広く正当化されている。
しかし、国際社会にはこの警察権力を普遍的に行使できる世界政府(グローバル・リヴァイアサン)が存在しない。第二次世界大戦後、アメリカを中心とする大国は国際連盟の失敗を教訓とし、国連安全保障理事会を通じた「グローバルな警察力」の集中化を図った。だが、どの国家の武力行使が「正当な警察行動(人道的介入など)」であり、どの武力行使が「利己的な侵略戦争」であるかの線引きは、拒否権を持つ大国の政治的思惑に左右され、極めて曖昧となっている。
現代の「正義の平和(Just Peace)」理論は、完全な非暴力主義(Pacifism)の倫理的限界を指摘し、極端な人権侵害や無政府状態(内戦)においては、人命と権利を保護するための限定的な暴力(権利を擁護する暴力:rights-preserving violence)が不可避の「代償」として要請されることを認めている。しかし、誰がその暴力を裁定し執行するのかという問題は、カントが懸念した「単一の強大な世界帝国は専制と無秩序を招く」という警告と常に衝突し続けているのである。正義の追求が新たな戦争の火種となり、平和の追求が不正義を温存するというこのジレンマは、絶対的な解決策のない哲学的な葛藤であり続けている。
4. 現代への示唆:複雑化する世界における平和概念のアップデート
21世紀の現代社会は、過去の哲学者たちが想定し得なかった未曾有の技術的・地政学的な複雑性の中にあり、これまでの「平和の定義」に根本的な適応とアップデートを迫っている。その最大の要因が、サイバー空間における対立、非対称戦争(ハイブリッド戦争)の常態化、そしてテクノロジーによる新たな構造的暴力の誕生である。
4.1 サイバー空間と「戦時・平時」の境界の融解(Blurring the line)
ホッブズやカントの理論、そしてアクィナスの正戦論は、明確な物理的国境を持つ主権国家同士が、物理的な兵器を用いて衝突する「古典的戦争」を暗黙の前提としていた。しかし、サイバー空間における国家間・非国家主体間の対立は、この前提を完全に崩壊させた。現代の紛争は、宣戦布告を伴う軍隊の激突ではなく、他国の重要インフラ(電力網、水道設備、金融システム、病院)に対するマルウェア攻撃(ランサムウェアなど)や、選挙システムへのハッキングという形で、物理的な流血を伴わずに遂行されている。
2007年のエストニアにおける大規模サイバー攻撃、イランの核施設を標的としたStuxnet、世界的な被害をもたらしたWannaCryやNotPetya、そして2021年の米国コロニアル・パイプラインへのランサムウェア攻撃など、サイバー兵器は社会の根幹を麻痺させる能力を持つ。フランスのパルリ軍事相やイギリスのカーター国防参謀総長が「サイバー攻撃により、私たちは毎日戦争状態にある」「現代において平和と戦争の明確な境界( distinction between peace and war)はもはや存在しない」と警告したように、現代社会は「銃声の鳴らない恒常的な戦争状態」に突入している。
この事態は、平和哲学に深刻な問いを投げかける。サイバー攻撃の多くは、国際人道法(武力紛争法)が規定する物理的な「武力攻撃(Armed attack)」の閾値を巧妙に下回るグレーゾーンで行われるため、これが「戦争」に該当するのか、単なる「犯罪」や「スパイ行為」なのかという法的・倫理的基準が定まっていない。データが破壊されるだけで物理的な死傷者が出ない場合(キネティックな力を伴わない場合)、それはホッブズ的な「暴力」と言えるのか。もし言えないとすれば、「暴力が存在しない=平和」という従来の消極的平和の定義は、サイバー攻撃で社会機能が停止している状態をも「平和」と呼んでしまう致命的な機能不全に陥ることになる。
4.2 非対称戦争とデジタル空間の「構造的暴力」
ガルトゥングの「構造的暴力」や「積極的平和」の概念は、このデジタル時代にこそ新たな文脈で高い適応性を示す。現代のハイブリッド戦争(正規軍と非正規軍、サイバー攻撃、偽情報工作を組み合わせた戦術。ロシアのクリミア併合における「リトル・グリーン・メン」などが典型)において、敵対アクターは直接的な軍事侵攻よりも、情報戦を重視する。彼らは偽情報(ディスインフォメーション)キャンペーンを用いて、標的国の社会内部に存在する分断(人種、階級、政治イデオロギーの対立)を意図的に煽り、市民の政府や制度に対する信頼を内側から破壊する。
これは、社会の亀裂を利用した新たな形態の「文化的・構造的暴力」の増幅に他ならない。アルゴリズムによって最適化され、特定の集団にのみ過激な情報を配信するフィルターバブルやエコーチェンバーは、他者への共感や公的な推論を不可能にし、社会の極極化を構造的に固定化する。また、AI技術の発展は自律型致死兵器システム(LAWS)の登場を促し、人間の倫理的判断を介在させずに「誰を殺すか」をアルゴリズムが自律的に決定するという、道徳的責任の所在に関する深刻な問いを投げかけている。これらは、テクノロジーそのものが新たな構造的抑圧の主体となる危険性を示している。
4.3 哲学のアップデート:新たな社会契約とグローバル規範の構築
このような複雑な脅威が遍在する世界において、ホッブズ的な「国家による物理的暴力の独占」だけでは、もはや市民の生命とインフラを守ることはできない。サイバー防衛は政府や軍だけでなく、重要インフラを運営する民間企業(プラットフォーマー)や、リテラシーを持つ市民一人ひとりのサイバー・レジリエンス(回復力)への参加を必要とする。これは、国家が一方的に保護を与え市民が服従するという垂直的な社会契約から、官民学が連携してサイバー空間の秩序を共同管理する「多層的なデジタル社会契約」へのアップデートを求めている。
同時に、カントが提唱した「理性に基づく国際的連帯と法整備」の必要性はかつてなく高まっている。高度に相互接続されたサイバー空間は、一国のシステムの脆弱性が瞬時に全世界の危機(サプライチェーンの崩壊など)に直結する運命共同体を生み出した。カントが「商業精神」による経済的相互依存が諸国に平和を強制すると見抜いたように、現代においては、デジタル経済と情報の相互依存をテコとして、サイバー空間における「してはならないこと(重要インフラへの攻撃禁止、医療機関へのランサムウェア攻撃の非合法化など)」に関する国際的な規範や多国間条約を形成することが急務である。現代の「永遠平和」は、物理的領土の不可侵という古いパラダイムを超え、デジタル空間における信頼と共有財産(コモンズ)の維持という新しい次元へと拡張されなければならない。
5. 結語
思想史の深淵を辿ることで明らかになるのは、「平和」という概念が決して単一の固定された定義に収斂するものではないということである。アウグスティヌスとアクィナスにおける「神の正義と秩序の現前」から始まり、ホッブズとロックが描き出した「恐怖と合理性による自然状態の克服」、カントが構想した「人間の闘争的本性を活用した理性的かつ制度的な調和」、そしてガルトゥングが切り拓いた「あらゆる構造的・文化的抑圧を根絶するための終わりのない実践プロセス」へと、平和の定義はそれぞれの時代が抱える生存の危機に呼応する形で、絶えず解体され、再定義されてきた。
平和とは、私たちが何もせずに自然状態のまま放置して得られるような受動的な恩恵ではない。それは、人間の利己心や対立の不可避性を冷徹に見据えながらも、理性と制度設計、そして絶え間ない社会構造の是正を通じて、人間社会をより正義と自由に適う形へと導こうとする「強靭な意思と継続的な実践のプロセス」である。現代のサイバー攻撃、ハイブリッド脅威、そして見えない情報戦の暴力に取り囲まれた我々は、これら先人たちの哲学の遺産を道標としながら、自らの時代の新たな脅威に即した「平和の概念」を再び紡ぎ直す歴史的責務を負っている。
本稿の論考を踏まえ、本報告書の結びとして、読者がさらに思索を深めるための哲学的な問いを3つ提示する。
- 「キネティックな破壊(物理的暴力)」を伴わない社会機能の麻痺は、戦争と呼べるか?サイバー攻撃や偽情報キャンペーンによる社会インフラや民主主義機能の破壊は、流血を伴わないが人々の生活と尊厳を著しく侵害する。私たちは、ホッブズ的な「暴力」の定義をデジタル技術に合わせてどこまで拡張すべきか。もし拡張するならば、それに反撃する権利(サイバー空間における正戦論)はどのように規定されるべきか。
- 「正義なき平和」に抵抗する市民の権利と、その暴力の倫理的限界はどこにあるか?社会構造の深部に潜む目に見えない差別や経済的搾取(構造的暴力)に対して、それを是正する制度が存在しない場合、市民がそれを打ち破るために物理的な抗議活動や直接的暴力(暴動や革命)に訴えることは、ロックの「抵抗権」やアクィナスの「正戦論」の文脈から見て、現代においていかにして正当化(あるいは否定)されるべきか。
- カントの構想した「永遠平和」は、人工知能(AI)時代においても成立し得るか?カントは、人間の利己心や商業精神という「非社会的社会性」が、結果として自然のメカニズムを通じて人類に制度的平和をもたらすと考えた。では、自律型致死兵器(LAWS)やアルゴリズムによる意思決定が人間の理性的介在を排除していく未来において、道徳的・理性的主体を持たないテクノロジーは、私たちを平和なシステムへと強制する新たな「自然の摂理」となり得るのか、それとも倫理的無政府状態への引き金となるのか。