宮台真司における加速主義への待望とその思想的背景:停滞する日本社会への処方箋としての「崩壊」に関する包括的研究
序論:社会学者・宮台真司と加速主義の邂逅
現代日本の言論空間において、社会学者・宮台真司が提示する「加速主義(Accelerationism)」への期待は、単なる政治経済的なリアリズムを超えた、実存的かつ存在論的な要請として立ち現れている。宮台は、1990年代に提唱した「終わりなき日常」という概念から出発し、日本社会の変遷を鋭く分析してきた。かつては「まったり生きる」ことを推奨し、システムの内側でいかに享楽を維持するかを説いていた彼が、なぜ今、システムの「崩壊を加速させよ」と叫ぶに至ったのか。その背景には、30年間にわたる日本の構造的停滞と、それに伴う日本人の「感情の劣化」に対する深い絶望がある 。
宮台が論じる加速主義は、ニック・ランドに代表される右派加速主義や、資本主義の高度化によるポスト資本主義への移行を説く左派加速主義の枠組みを参照しつつも、独自の「日本的な文脈」に深く根ざしている。彼にとっての加速主義とは、機能不全に陥りながらも、じわじわと腐敗し続ける日本社会という「檻」を、テクノロジーや資本の力によって臨界点まで押し進め、強制的に突破させるための戦略的選択である 。本報告書では、宮台真司がなぜ加速主義に希望を託すのか、その理由を彼の思想的変遷、日本社会分析、技術論、そして表現論の観点から詳細に考察する。
宮台の思想は、2017年の『正義から享楽へ』の発表、そしてその後のトランプ政権の誕生やコロナ禍を経て、決定的な転換点を迎えた。かつては「贈与の記憶」を回復することで社会の劣化を食い止められるという楽観的な展望を持っていたが、現在ではその可能性を否定し、むしろ「社会の底が抜ける」ことによるリセットを待望する段階に入っている 。この転換の核心には、言葉(意味)によるコミュニケーションがもはや機能しないという認識、すなわち「意味論から存在論へ」のシフトが存在する。
第1章:日本社会の構造的停滞と「感情の劣化」の分析
30年間の不変と切迫感の欠如
宮台真司が加速主義を支持する最大の動機は、日本社会が過去30年間にわたり、何一つ本質的な変化を遂げていないという冷徹な認識にある。1990年代初頭のバブル崩壊以降、日本企業は旧態依然とした構造を維持し続け、国民もまた生活の質がじわじわと悪化しているにもかかわらず、それを他人事のように捉え、切迫感を抱くことがない 。宮台は、この「ゆでガエル」的な状況こそが、日本を滅ぼす真の要因であると指摘する。
1995年や1997年を境界線として、日本経済は完全な下り坂に入った。一人あたりGDPの国際比較においても、かつてのトップクラスから30位前後へと転落し、70年代の水準まで落ち込んでいる 。しかし、この劇的な没落に対し、日本社会にはそれを食い止めるための自己修正能力が欠如している。官僚支配や政治の腐敗、そしてそれらに無関心な国民という三位一体の構造が、日本を「変われない国」に固定してしまった 。
「クズ化」する日本人と中間集団の消滅
宮台は近年の著作において、日本人の「感情の劣化」を激しく指弾している。彼によれば、かつての日本社会には「贈与」の記憶があり、それが人間同士の結びつきや倫理の源泉となっていた 。しかし、現代の日本人は「損得マシーン」と化し、自己保身と「ケツ舐め」の連鎖に埋没している 。
特に深刻なのは、若者たちの間に「友達」も「親友」もいない状況が広がっていることである。彼らにとって他者は、共感の対象ではなく単なる「風景」となり果てている 。かつて社会学者たちが指摘した「中間集団(家族、地域、職場)」による相互扶助の機能が完全に失われ、個人は剥き出しのシステム(市場と国家)の前に放置されている。このような「クズ化」した大衆が構成する社会では、いかなる正論も届かず、システムを内側から変えるエネルギーは湧いてこない。宮台は、社会が堕ちるところまで堕ち、底が抜けることでしか、日本人の再生はあり得ないと説く 。
感情の劣化の指標と社会構造の変化
宮台が指摘する「感情の劣化」は、以下の表のように整理することができる。これらは、加速主義が必要とされる背景としての「社会の荒野化」を裏付けるデータ群である。
| 概念 | 劣化前の状態(贈与的・強度的) | 劣化後の状態(交換的・クズ化的) |
| 人間関係の質 | 仲間を幸せにすることが自らの幸せ | 利害に基づく「ケツ舐め連鎖」 |
| 社会の空気 | 率先避難者のような空気を破る勇気 | 同調圧力による「クズ扱い連鎖」 |
| 倫理観 | 法を超えた「正しさ」や「強度」の希求 | 自己保身とマニュアルへの盲従 |
| 存在のあり方 | 世界へと開かれた「強度」の体験 | 社会の中に閉じ込められた「意味」の消費 |
| 時間感覚 | 歴史的な連なりと「未来」への期待 | 停滞した「終わりなき日常」の反復 |
このような「感情の劣化」は、日本人が空っぽな自己を肯定し、その空っぽさゆえに資本主義に最も適応してしまった結果であるとも分析される 。空っぽであるがゆえに没落も早く、再起の足がかりとなる「内発性」も枯渇している。この閉塞状況を打破するには、システムの内側からの改革ではなく、システムそのものの破壊を加速させるしかないというのが宮台の論理的帰結である。
第2章:加速主義の思想的系譜と宮台による独自の解釈
廣松渉の影響と「崩壊の享楽」
宮台真司の加速主義的傾向の根底には、彼の師である哲学者・廣松渉の影響が色濃く存在している。廣松は、マルクス主義の再構成を通じて「物象化論」を提唱したことで知られるが、プライベートな会話においては、よりラディカルな認識を示していた。廣松は絶えず「崩壊を加速させよう」「資本主義のいいところは、放っておくと加速して崩壊するところだ」と語り、そのプロセスに一種の「享楽(エロス)」を見出していた 。
宮台にとって、加速主義は単なる冷徹な社会分析の結果ではなく、師から受け継いだ「厨二病的」な感性、すなわち「世界なんてぶっ壊れてしまえ」という根源的な破壊衝動と結びついている。この感性は、千葉雅也が提唱するような「生活の丁寧な維持」とは対極に位置するものである 。宮台は、資本主義の「脱領土化(デテリトリアリゼーション)」の力、すなわち既存の道徳や共同体を破壊し尽くす力を、むしろ肯定的に利用しようとする。
ニック・ランドと民主政の限界
宮台は、ニック・ランド流の加速主義者が提示する「民主政の限界」という診断に深く共鳴している。加速主義の論理によれば、民主主義は「感情の豊かさ(ピティエ)」や「合理的な対話」を前提としているが、現代社会においてこれらの前提はすでに崩壊している 。劣化した国民が出力する民主的な決定は、もはや出鱈目なもの(ポピュリズムや利己的な判断)にしかならず、社会をより良い方向へ導くことは不可能である。
この絶望的な状況において、加速主義は「制度による変革」を放棄し、「テック(テクノロジー)」と「資本」の自律的な運動に期待を寄せる。民主主義的な手続きをバイパスし、技術的な強制力によって現実を書き換えていく。宮台はこれを、単なるニヒリズムではなく、機能不全に陥った近代システムを「正しく終わらせる」ための戦略として評価している 。
加速主義の分類と宮台の立ち位置
加速主義には大きく分けて、右派(ニック・ランドら)と左派(ニック・スルニチェクら)が存在するが、宮台の主張はそのどちらにも還元されない独自の性格を持っている 。
- 右派加速主義(R/Acc): 資本の自己増殖と技術の暴走を肯定し、人間中心主義を脱却して「外側」へ突き抜けることを目指す。
- 左派加速主義(L/Acc): 資本主義の技術基盤を利用して、労働からの解放やポスト資本主義的な社会設計を目指す。
- 宮台流加速主義: 日本社会の「感情の劣化」と「官僚支配」を打破するために、システムの崩壊を加速させ、人々を「社会という荒野」に放り出すことで、生存のための「仲間」や「共同体」の再構築を強いる 。
宮台にとっての加速主義は、理想的な社会像を設計するためのものではなく、偽りの安定(まったりした地獄)を破壊し、人々に実存的な覚悟を迫るための「ショック療法」に近い。
第3章:「社会」から「世界」への浮上と存在論的転回
閉じ込められた「社会」という檻
宮台真司の近年の思想において最も重要な対置は、「社会(Society)」と「世界(World)」の区別である。宮台の定義によれば、「社会」とは「ありうるコミュニケーションの全体」であり、人間が言葉や制度、法によって構築した意味の網の目である。一方、「世界」とは「あらゆる全体」であり、言葉によって分節化される前のカオス(混沌)や、圧倒的な外部性を含む総体を指す 。
宮台は、現代の日本人が「社会」という檻の中に閉じ込められ、「世界」から完全に閉ざされていると警告する。人々は「社会」の内側でのみ通用する「意味」や「損得」に汲々とし、その背後にある「世界」の強度(強烈な体験質)を喪失してしまった。加速主義によって「社会」の自明性が崩壊することは、人間が再び「世界」へと浮上し、存在論的な驚愕を取り戻す絶好の機会となる 。
「意味から強度へ」の再考
1990年代、宮台は「意味から強度へ」というスローガンを掲げ、システムの意味に回収されない身体的な「強度(Intensity)」を重視した 。しかし、その後「強度」という言葉さえもがサブカルチャー的に消費され、単なるファッションへと堕したことを受け、彼は「体験質(クオリア)」というより哲学的な概念へと移行した 。
「体験質」とは、例えば音楽を聴いた時に感じる「言葉にできない圧倒的な感覚」のことである。宮台は、フィッシュマンズの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」や「宇宙 日本 世田谷」といった楽曲を引き合いに出し、そこに表現されている「どこへも行けない絶望」と「それでも鳴り続ける音の強度」を語る 。若者たちが理屈(意味)では理解しても、実感(体験質)で納得できない現状に対し、宮台は加速主義的な衝撃を通じて、強制的に「地平の融合」を図ろうとしている。
存在論的転回を駆動する「感染」
宮台は、知識を「学習」することではなく、他者の強度に「感染」することを重視する。存在論的転回とは、認識の枠組みを変えることではなく、自分自身の存在のあり方、世界との関わり方そのものが不可逆的に変容してしまうプロセスである [url63]。
| 項目 | 意味論的アプローチ(旧来) | 存在論的アプローチ(宮台) |
| 対象 | 言葉、論理、正義、道徳 | 強度、体験質、身体、感染 |
| 目的 | 正しい認識を持つこと | 世界との関わり方を変容させる |
| 方法 | 議論、説得、学習 | 表現への没入、儀式、崩壊の体験 |
| 結果 | 社会的な「市民」の形成 | 世界へと開かれた「遊動者」の覚悟 |
加速主義は、この存在論的転回をマクロな規模で引き起こすための装置である。平穏な日常が継続している限り、人間は自らの存在の根源を問い直すことはない。しかし、システムが崩壊し、日常の「意味」が通用しなくなった時、人間は否応なしに「世界」の生々しさに直面し、新たな生存の形式を模索せざるを得なくなる。
第4章:テクノロジーの二面性とデザイナーの支配
「良いテック」と「悪いテック」の峻別
宮台真司はテクノロジーそのものを否定しないが、その使われ方には極めて批判的である。彼は「デザイナー(設計者)」と「ユーザー(利用者)」の間の圧倒的な情報の非対称性に警鐘を鳴らしている。スティーブ・ジョブズが自分の子供にiPadを触らせなかったというエピソードを引用し、テックの設計者はその依存性や有害性を熟知している一方で、大衆はそれを無邪気に享受している現状を「馬鹿正直過ぎる」と断じる 。
宮台はテクノロジーを「良いテック」と「悪いテック」に分類する。
- 悪いテック(社会への閉鎖): 人間を「社会」という檻の中にさらに深く閉じ込めるもの。ゲーミフィケーション、SNSによる承認欲求の増幅、アルゴリズムによるフィルターバブルなどがこれに該当する。これらは、劣化した人々に一時的な「幸せ感(ユーフォリア)」を与え、思考を停止させる「デジタル・ドラッグ」として機能する 。
- 良いテック(世界への開放): 人間中心主義的なバイアスを解除し、人間を「世界」へと開かせるもの。身体機能を拡張し、未知の知覚をもたらすもの、あるいは人間社会の閉鎖的な論理(チンパンジーOS)を超えた決定を下すAIなどがこれに含まれる 。
AIは「人ならざるものの声」になれるか
宮台が加速主義的に期待を寄せるテクノロジーの一つが、AI(人工知能)である。彼は、人間がどんなに理性的に振る舞おうとしても、結局は自分の属する集団に有利な判断(内集団バイアス)をしてしまうという限界を指摘する。人類の歴史において、このバイアスを超えるために利用されてきたのが、占いや神託、シャーマンといった「人ならざるものの声」であった 。
現代において、AIが膨大なデータを学習し、人間的なバイアス(縄張り意識や敵味方の二項対立)を超越した判断を下せるようになるならば、それは新たな「神託」として機能し得る。加速主義によってAIの自律性が高まることは、人間中心主義という閉鎖系から脱出するための回路を開く可能性がある。ただし、AIが単に人間の「チンパンジーOS」を学習し、人間の劣化を増幅させるだけならば、それは最悪の「悪いテック」となる 。
加速主義とテック・ガバナンス
加速主義的な状況下では、政治(制度)によるコントロールはもはや無効であり、テックデザイナーが実質的な支配者となる。宮台は、2017年以降の反省として、人々がショックによって自律的に目覚めるというシナリオは楽観的すぎたと述べている 。現在の彼は、デザイナーが感情の劣化した大衆を管理し、煩わしい社会制度をキャンセルしていくプロセスが加速することを予測している。
この「デザイナーによる支配」は一見ディストピア的だが、宮台にとっては、機能不全の民主主義がダラダラと続くよりは、システムの臨界点を早める効果を持つ。彼は、この加速のプロセスを通じて、社会の底が完全に抜けた後に、どのような「人間の叡智」が湧き出し得るのかを問い直そうとしている 。
第5章:映画批評という「儀式」と体験質の伝達
なぜ映画を論じるのか:学問の限界
宮台真司が近年、膨大な量の映画批評を執筆し、著書『崩壊を加速させよ』にまとめた理由は、学問的な言説(意味論)の限界にある。社会学的な分析や理屈は、若者たちの「実感」に届かない。一方、映画というメディアは、映像と音響を通じて「体験質(クオリア)」を直接的に伝えることができる 。
宮台にとって映画批評は、単なる作品の解説ではない。それは、観客を「社会」の外部にある「世界」の強度に触れさせ、存在論的な変容を引き起こすための「儀式」であり「感染経路」である。映画を見ることは、安全な場所から物語を消費することではなく、自らの存在をリスクにさらし、未知のウイルス(強度)に感染しにいく行為でなければならない [url63]。
表現者の世界体験へのアクセス
宮台は、アピチャッポン・ウィーラセタクンや濱口竜介、黒沢清といった監督の作品を高く評価する。彼らの作品には、日常的な「意味」の網の目から漏れ出る、圧倒的な外部性や「治らない傷」が描かれている 。
例えば、Netflixアニメ『ラブ、デス&ロボット』の「ジーマ・ブルー」についての評論では、「世界の不可能性」に打ちのめされる体験が論じられている。観客はジーマの崩壊というプロセスを通じて、自らの無知と「世界」の深淵を突きつけられる。これは加速主義的な「崩壊」がもたらすカタルシスと通底している 。
若者世代へのアジテーション
宮台は、千葉雅也の小説『オーバーヒート』についても、性愛を忌避する現代の若者に対する「お前らそれでいいのか?」というアジテーション(挑発)として読み解いている 。彼が映画や文学を論じる時、常に念頭にあるのは、劣化した「社会」に安住する若者たちをいかにして「世界」の荒野へと連れ出すかという一点である。
音楽に関しても同様であり、フィッシュマンズやDos Monos(荘子it)といった表現者との対話を通じて、現代の閉塞感をいかにして音の強度に変換し、システムの壁に穴を開けるかを模索している 。表現による「感染」は、加速主義が物理的・技術的に社会を破壊するのと並行して、内面的な「社会の崩壊」を先取りさせる役割を担っている。
第6章:社会の荒野化と「仲間」の倫理
「社会という荒野」を生きる覚悟
宮台真司の加速主義的提言の最終的な帰結は、「社会という荒野を仲間と生きる」という戦略である。彼は、日本社会の劣化(ケツ舐め連鎖とクズ扱い連鎖)がマクロには終わる可能性はないと断言する 。この絶望的な認識を前提とした時、唯一の生存戦略は、もはや国家やシステムを頼りにせず、自分たちの小さな共同体(界隈)を自律的に運営することである。
「崩壊が加速する必要がある」と宮台が説くのは、崩壊が目に見える形で進行して初めて、人々が「このままではいられない」と覚悟を決め、生存のための工夫を始めるからである 。加速主義は、偽りの安定という「麻酔」を剥ぎ取り、人々を剥き出しの現実に直面させる。
率先避難者としてのリーダーシップ
宮台は、東日本大震災の際の「釜石の奇跡」を例に、リーダーシップの本質を説く。津波が迫る中、「真っ先に逃げたヤツは臆病者だ」という空気(社会の圧力)をぶち破って逃げ出した子供たちが、周囲の大人たちをも救った 。この「空気を破るヤツ」こそが、今の日本に最も欠けている存在である。
加速主義的な状況においては、既存のルールや空気はもはや命を守ってくれない。自分たちで判断し、率先して行動する「自律した個人」が、結果として他者を救うことになる。宮台は、このような「率先避難者」のような生き方を、劣化した社会への対抗軸として提示している。
共同体とローカルな道徳
宮台が構想する「仲間」との生き方は、決して閉鎖的な村社会への回帰ではない。彼は、数多の共同体(界隈)が共存し、それぞれが独自のローカルな道徳を持つことを肯定するが、それを他者に強制したり、法化したりすることには強く反対する 。
| 概念 | 劣化した社会の「つながり」 | 宮台が説く「仲間」の倫理 |
| 紐帯の根拠 | 同調圧力、利害、ケツ舐め | 贈与、強度への感染、愛着 |
| 他者の扱い | 仲間以外は「風景」または「クズ」 | 異なる界隈の「地平の融合」への開き |
| 危機への対応 | 周囲を伺い、逃げ遅れる | 率先して動き、シグナルを発する |
| 法の位置づけ | 全体を縛る画一的な正義 | 最小限のルールと、界隈の多様な流儀 |
「仲間を幸せにできなければ、自分も幸せになれない」という感覚を取り戻すこと。これが、加速主義がもたらす崩壊の先にあるべき「再生」の核心である 。
第7章:政治・官僚・経済の機能不全と加速の必然性
官僚支配という「平時のプラットフォーム」
宮台真司は、日本の官僚機構が「平時」を維持することには長けているが、大きな転換を迫られた時には致命的な弱点を露呈すると指摘する 。政治家も国民も、なぜ官僚支配がいけないのか、その本質的な理由(既存の座席配置表を書き換える発想の欠如)を理解していない。
田中角栄の時代のような「政治主導」は消え去り、現代の政治は単なるポジション取りの場と化している 。宮台は、このような硬直したシステムを内側から改革することは不可能であると考えている。加速主義的な圧力、すなわち外的な経済的没落や技術的な破壊がなければ、このプラットフォームは永遠に変わることはない。
経済的没落のリアリティ
日本の一人あたりGDPが世界30位前後まで落ち込んでいるという事実は、もはや「じわじわ悪くなる」レベルではなく、「没落」そのものである 。宮台は、この没落を直視しない日本人の「否定性」を批判する。空っぽな自己への肯定が、没落を他人事のように見せてしまう。
加速主義は、この没落をさらに加速させ、隠蔽不可能なレベルまで到達させる。資本主義の「自己崩壊的な力」を最大限に引き出すことで、偽りの豊かさという幻想を粉砕する。宮台にとって、経済政策の議論(MMTや再分配など)は、前提となる「感情の豊かさ」や「共同体の紐帯」が失われている現状では、空論に過ぎない。まずは底を抜き、現実の厳しさを国民に突きつけることが先決である。
戦略としての「重武装中立」
宮台は外交・安保論においても、加速主義的なリアリズムを見せる。アメリカの機嫌を損なわないように振る舞う現在の追従外交を批判し、自律的な「重武装中立」を主張する 。これは、戦後日本の「対米依存」という温い殻を破壊し、厳しい国際政治の現実に日本を放り出すことを意味する。これもまた、国家レベルでの「崩壊の加速」と「自律の回復」という論理に基づいている。
第8章:千葉雅也との対話:加速か維持か
加速主義の「享楽」と「主婦的感覚」
宮台真司と千葉雅也の対話は、現代思想における加速主義の受容と限界を象徴している。宮台が「世界なんてぶっ壊れてしまえ」という衝動に享楽を見出すのに対し、千葉はそれを「厨二病的」であるとして距離を置く 。千葉が重視するのは、部屋を片付け、食事を大切にする「主婦的感覚」であり、生活の細部を丁寧に紡ぐことである 。
この二人の立場の違いは、現代社会をいかに生き延びるかという処方箋の違いでもある。
- 宮台: システムの崩壊を加速させ、荒野へと脱出し、強烈な強度(エロス)を求める。
- 千葉: システムの隙間に「二重の生」や「なりすまし」というユーモアを見出し、生活を維持する 。
宮台は、千葉の「自意識過剰ではない明るさ」に憧れを抱きつつも、自分自身は「崩壊」というダークな快楽から離れることができない。この宮台の業の深さこそが、彼の加速主義に強烈な説得力(あるいは危うさ)を与えている。
偶然性の喪失と性愛的退却
両者は、現代社会において「偶然性」がトラウマや有害なものとして忌避されている現状を憂慮している。90年代のテレクラのような「どこにつながるか分からない偶然」の享楽が失われ、人々は確実な必然性(マッチングアプリのスペックなど)ばかりを求めるようになった 。
性愛的退却は、感情の劣化の最たるものである。加速主義が日常の必然性を破壊し、不確実な偶然性を無理やり社会に導入することは、人間が再び「他者(外部)」に出会い、傷つき、変容するための契機となる。宮台が千葉の小説に見る「性愛的な物質性」への関心は、閉ざされた社会から脱出するための重要なヒントとなっている 。
第9章:加速主義が導く未来への展望
絶望から始める「本当の強さ」
宮台真司の言説は一見、極めて悲観的で破壊的に聞こえる。しかし、その根底には「絶望から始めよう。きっとそれも悪くない」という、奇妙なほど澄み渡った希望がある 。彼にとっての加速主義は、理想郷へ行くための乗り物ではなく、腐った現状を終わらせ、人間が本来持っているはずの「強さや優しさ」を呼び覚ますための過激な試練である。
加速し行き着いた後がどうなるのかは、加速主義者自身にも分かっていない 。しかし、宮台は「未知の未来」に行き着くことそのものに価値を置く。それは、現在の延長線上にはない何か、すなわち「社会」という檻の外側にある「世界」の風景である。
日本再生への最終シナリオ
宮台が描く日本再生のシナリオは、以下のような段階を踏む。
- 加速: 資本の暴走、技術の高度化、経済的没落を加速させ、社会制度を機能不全に追い込む。
- 崩壊: 官僚支配や偽りの民主主義という「平時のプラットフォーム」が完全に壊れ、底が抜ける。
- 荒野: 守ってくれるシステムが消滅し、人々は「社会という荒野」に放り出される。
- 覚悟: 孤独と飢えの中で、人々は自己保身を捨て、生存のために「仲間(共同体)」を求め始める。
- 新生: 贈与と強度に基づいた自律的な「界隈」が各地に誕生し、新しい文明の芽となる。
このシナリオにおいて、加速主義は「4」の「覚悟」を強制的に引き出すための起爆剤である。
結論:宮台真司という「感染源」と加速主義の行方
宮台真司が加速主義に期待しているのは、それが現代日本という「出口のない密室」を物理的に、あるいは存在論的に爆破する唯一の手段に見えるからである。30年間の停滞は、議論や選挙という「意味論的」な手段ではもはや解決不能な段階に達している。人々はクズ化し、社会は空っぽになり、感情は劣化した。この状況を放置することは、じわじわと続く緩やかな死を意味する 。
加速主義は、この緩やかな死を「急激な死(崩壊)」に変換し、そこからの奇跡的な蘇生を賭けるギャンブルである。宮台は、自らが「感染源」となり、映画批評や言論を通じてこの崩壊への期待を人々に感染させようとしている。それは、損得勘定で動く「交換の主体」を殺し、法を超えた強度を生きる「贈与の主体」を復活させるための、過激な通過儀礼の提案に他ならない 。
「崩壊を加速させよ」。この言葉は、現代の日本社会に対する呪詛であると同時に、まだ見ぬ未来の仲間たちへの切実な連帯の呼びかけでもある。加速主義という劇薬を用いた宮台真司の思想的闘争は、私たちが「社会」という檻を出て「世界」の荒野を生きる勇気を持てるかどうかの、究極の問いを突きつけている。その道が破滅に至るのか、それとも真の自由に至るのかは、加速の果てに私たちがどのような「叡智」を絞り出せるかにかかっている。